多摩川
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滝の渡し - 廃止年不詳(都市化によるとされる)[12]

拝島の渡し - 八王子との日光往還道だったが昭和24年(1949年)に拝島橋架橋に伴い廃止[12]

大神の渡し(平の渡し) - 廃止年不詳(都市化によるとされる)[12]

福島の渡し(築地の渡し) - 昭和15年(1940年)に廃止(都市化によるとされる)[12]

柴崎の渡し - 古鎌倉道であったが、鎌倉幕府滅亡により廃止[12]。後世に立日橋が架橋。

日野の渡し - 甲州街道(下記の「万願寺の渡し」参照)。

万願寺の渡し - 甲州街道の古道であったが日野橋架橋により大正15年(1925年)、日野の渡しとともに廃止[12]

石田の渡し - 甲州街道の古道であったが、江戸時代初期の慶安年間、街道移転により廃止[12]

一の宮の渡し - 昭和10年(1935年)以降に廃止(都市化によるとされる)[12]

関戸の渡し - 昭和12年(1937年)、鎌倉街道関戸橋架橋に伴い廃止[12]

是政の渡し - 昭和16年1941年)、川崎街道是政橋架橋に伴い廃止[12]

常久河原の渡し - 廃止年不詳(作業渡しとして利用されていたが周辺架橋により廃止)[12]

押立の渡し - 稲毛道(旧綱島街道)だったが周辺架橋により昭和17年(1942年)に廃止[12]

上菅の渡し(矢野口の渡し) - 昭和10年(1935年多摩川原橋架橋に伴い下菅の渡しと同時に廃止[12]

菅の渡し - 昭和48年1973年)、京王相模原線開通に伴い廃止[12]

下菅の渡し - 上菅の渡しと同時に廃止[12]

中ノ島の渡し - 昭和10年頃に廃止。

登戸の渡し - 昭和28年頃に廃止(多摩水道橋架橋)。

宇奈根の渡し - 廃止年不詳。

二子の渡し - 大正14年(1925年)、大山街道二子橋架橋に伴い廃止[12]

諏訪の渡し - 廃止年不詳。

北見方の渡し - 廃止年不詳。

下野毛の渡し - 昭和30年頃に廃止。

(東急ゴルフパークたまがわ渡船 - 下記参照)

宮内の渡し - 下記「丸子の渡し」参照。

丸子の渡し - 昭和10年(1935年丸子橋架橋に伴い丸子の宮内の渡しと同時に廃止[12]

中丸子の渡し - 大正15年頃に廃止。

平間の渡し - 昭和6年(1931年)、ガス橋架橋に伴い廃止[12]

矢口の渡し - 昭和24年(1949年)、鎌倉街道の多摩川大橋架橋に伴い廃止[12]

小向の渡し - 大正10年頃に廃止。

六郷の渡し - 明治6年(1873年)、東海道の左内橋(後の六郷橋)架橋に伴い廃止[12]

大師の渡し - 昭和14年(1881年)、大師橋架橋に伴い廃止[12]

羽田の渡し(六左衛門の渡し、六稲荷の渡し) - 大師の渡しと同時に廃止[12]
(下流)

公共交通ではない渡船として、東急ゴルフパークたまがわ(川崎市高津区下野毛地先)においてゴルフ場利用者向けの渡船(クラブハウスが東京都側にあったため)が運航されていたが、2015年3月をもって廃止された[14]。また地域おこしのために渡船を復活させようという取り組みが一部地域で検討されている。
利用
水資源など

飲用水として多摩川から取水が行われている。なお東京都の水源は約8割が利根川水系及び荒川水系(荒川武蔵水路によって利根川の水も導水されている)、約2割が多摩川水系である[15]

1930年代までは調布浄水場付近で取水されてきたが、しばしば塩水(塩水くさび)が遡上して水道水に塩辛くなった。このため1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて丸子橋の上流部に塩水対策も兼ねた調布取水堰を建設している[16]。水質の悪化により調布浄水場は1967年(昭和42年)に廃止となったが、その後も調布取水堰は塩水対策として残された。

かつては砂利採取が行われていた(後述)。「砂利鉄道#関東地方」も参照。

河原を無断占有してを作ったり、住居を設置したりする人もいる。
釣り・行楽

多摩川は水質汚濁が進む昭和中期までは漁業が盛んで、中流では鵜飼、下流ではシラウオ漁が行なわれた[17]。「鮎漁」「生態系」も参照。現在は娯楽としての釣りが行なわれており、遊漁料は、多摩川漁業協同組合の収入源となっている。釣りと他のレジャーとの軋轢もありカヌーイストに暴言を吐いて石を投げつけるなどの行為も発生した[18]

上流ではラフティングなどが行なわれており、多摩川川下り事業者組合には18社が加盟している[19]

多摩川流域を利活用したエコミュージアムは「多摩川エコミュージアムプランの推進」で、平成18年度国土交通省手づくり郷土賞(地域活動部門)受賞。平成29年度には 同賞大賞受賞。

このほか河原に多摩川の水を利用した公園が設置されている。
歴史歌川広重『江戸近郊八景』より「玉川秋月」。現在の東京都調布市近辺から川崎市多摩区方面を望んだものであるという。

多摩川は中流以降、青梅を扇頂とする広大な扇状地を形成し、現在の武蔵野台地の基盤となった。また、その他にあった全ての丘陵(狭山丘陵を除く)を削り去り平坦な地を作った。

数万年前以降、武蔵野台地の隆起により多摩川中流はこの台地の南縁へ押しやられ、現在のように多摩丘陵の北縁を流れるようになった。

流域では旧石器時代以降の遺跡古墳が見つかっており、沿川には早くから人が定住していた様子がうかがえる。
歌枕としての多摩川

古代には多摩川は「六玉川(むたまがわ)」の一つ、「調布の玉川」として知られ、多摩川にまつわる和歌が『万葉集』や勅撰和歌集に数多く収録された。
伝承・宗教

多摩川にまつわる民間伝承や宗教的な言説は少なくない。代表的なものとしては、日蓮宗系の宗教集団内において数多く描かれた日蓮入滅図がある。日蓮は1282年9月に瀬谷で多摩川を渡り、現在の池上本門寺の場所にあった信徒の邸宅に入って翌月にそこで没している


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