1981年に読売新聞記者の馬場錬成の働きかけで、多摩川にサケを放流する計画が始まった[30]。同年秋に「多摩川にサケを呼ぶ会」が結成され、1984年に最初のサケが遡上した[31]。当時日本の各地で実施されたカムバック・サーモン運動の一つである。多摩川にサケを呼ぶ会は東京にサケを呼ぶ会、多摩川サケの会と改称し、2010年まで放流を続けた[32]。
また宿河原堰などへの魚道設置といった工夫と相まって、再び鮎が遡上するようになっており、白鷺やコアジサシといった鳥類の採餌を支えるまでに回復してきている(「#生態系」を参照)。
現在では河川敷に親水施設などが設けられ、近隣住民の憩いの場として利用されるている。急激な水質汚染とその急回復を経験した多摩川は、環境保全に向けた更なる努力の必要性を象徴する場として、多くの市民活動の舞台ともなっている。 多摩川は勾配が急な川で、先史時代から上記のような顕著な崖線を形成するほどの「あばれ川」である。先史時代の古墳や住居跡は氾濫原を避けた高台にあったが(例外として丸子には低地に古墳が築かれている)、集落は徐々に豊富な水を求めて川沿いに広がるとともに、常に洪水に悩まされるようになった。多摩川は土砂の流下と堆積が大きいため、氾濫の度に流路が変わった。多摩川には古来、畿内と東国を結ぶ街道がいくつも渡っていたが、当時中国より伝わった技術でも暴れ川である多摩川への架橋は難しく、舟を連ねた舟橋か、渡船に頼った。また氾濫によって流路が変わることで流域の村落を分断してしまうこともは度々であった。現在のような流路に近くなったのは1590年の大洪水によると言われている。現在も多摩川の両岸に残る押立、布田、宇奈根、瀬田、野毛、等々力、丸子といった地名は、かつて一つの集落で、主に川の南側は洪水による荒れ野になっていたところである。明治22年の市町村制施行時には、これらの集落は多摩川が分断したまま東京府荏原郡、または神奈川県北多摩郡に属して飛び地になり、その後に境界の変更が行われている。これらの町名の南側で弧を描く地割や道路は、かつての多摩川の南岸である。 江戸時代以降も大洪水は頻発した。戦国時代が終わって軍事的な懸念も少なくなり、最下流には1600年に東海道の架橋として六郷橋が架けられたが、頻繁に流されて財政を圧迫するために再建を断念。1688年から1874年までは他の街道同様に渡し舟となった。深刻だったのは上水の取水堰口の埋没や破壊である。江戸時代は流域も人口が急激に増え、特に武蔵野台地上は利水が難しく室町時代から多くの用水(玉川上水、昭和用水、府中用水、二ヶ領用水など)が引かれていたが、洪水によって絶たれると耕作や飲水にも難儀した。 築堤は古くから行われていたようである。多くは霞堤であり、大洪水ではあえなく決壊して土地は流作地となっていた。江戸時代からの慣例で流作地では諸役や税が賦課されなかったが、1873年の地租改正によりこれまで無税であった流作地にも課税されるようになり、村が自力で水害を乗り切ることができなくなってしまった[33]。しかし大規模な治水が行われないまま明治後半から大正初期にかけて大水害が頻発し、特に1910年に関東一円を水浸しにした明治43年の大水害では、多摩川でも水害史上最悪と言われるほどの被害が出た[34]。しかし被害を大きくした要因は、富国強兵政策下での治水事業費の圧迫、さらに橋脚の建設、砂利の採掘、河川敷を利用した果樹栽培、川岸への工場の進出などの無秩序な工業化・都市化だったとされている[35]。 以降は築堤の早期実現を求める河岸住民の声が高まることになる。1914年9月16日未明、御幸村選出の橘樹郡会議員、秋元喜四郎
治水
着任早々の有吉忠一神奈川県知事は要望を受け入れ、工事は1916年2月から、上平間天神台から上丸子までの一帯で開始されたが、対岸の東京府側で反対運動が起こり、内務省の中止命令を受けた[38]。有吉知事はこの命令を無視し工事を続行、東京府との対立は妥協され、翌月10月に堤塘が完成した[38]。この強行工事で有吉知事は河川法違反と内務省の命令違反でけん責処分を受けたが、住民は知事の尽力を称えて新堤塘を「有吉堤」と名付けた[38]。現在のガス橋からバス通り沿いに、その名残が残されている[38]。
1918年から内務省直轄の本格的な多摩川下流改修工事が始まる。途中、関東大震災により堤防に亀裂や陥没が入るなどの被害が出たが、遅延を含め15年の歳月をかけて1934年に竣工、河口から二子橋までが改修された[38]。
その後、日野橋までの間の改修が進められて大規模な氾濫は少なくなるが、1974年には狛江水害が発生して大きく報道されテレビドラマ化(『岸辺のアルバム』)もされ、二ヶ領宿河原堰の北岸には「多摩川決壊の碑」が建てられている[39]。
1990年からは、さらなる対策として、河口から日野橋までの区間をスーパー堤防(高規格堤防)とする整備事業が進められている。その後も集中豪雨や台風などにより河川敷が湛水して残された人が救助される光景を度々見ることがある。
2019年には令和元年東日本台風(台風19号)により増水し、堤防の決壊こそ起きなかったものの、流域の広範囲の地域が狛江水害以来45年ぶりとなる規模で浸水の被害を受けた。要因として世田谷区玉川に堤防未整備の区間が約540mあった[40]ほか、想定を超える雨量による本流の水位上昇で支流からの排水ができなくなる「背水」(バックウォーター)が起きた可能性が指摘されている[41][42]。 多摩川では古くから内水面漁業が営まれており、多摩川の鮎は名産として江戸幕府にも上納されていた。1843年には御留川に指定され、鮎は将軍家専用で、献上する鮎は沿岸の農民が負担した[45]。明治以降禁制が解かれると、二子や登戸が鮎の名所となった[45]。二子の船宿「亀屋」は1875年から12回にわたって皇族の御休憩所になり、大正天皇や昭和天皇も皇太子時代に鮎漁に来た[45]。 この鮎やマルタウグイなどは、中流域では掴み取りできるほど多かったとも伝えられている。多摩川の水底には砂利が多くコケが生育し、また伏流水が湧き上がる場所や浅瀬が点在していて産卵適地も多い。そのため左記の魚の生育に適した地形であると考えられている。 魚類のほか、その魚類を捕食する鳥類も多く生活していたとの記録がある。明治以前の文献には、多摩川流域にもトキ、コウノトリ、ツル類、ガンカモ、オオハクチョウなどが訪れていたとも記録されている。
生態系