多摩川
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このため1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて丸子橋の上流部に塩水対策も兼ねた調布取水堰を建設している[16]。水質の悪化により調布浄水場は1967年(昭和42年)に廃止となったが、その後も調布取水堰は塩水対策として残された。

かつては砂利採取が行われていた(後述)。「砂利鉄道#関東地方」も参照。

河原を無断占有してを作ったり、住居を設置したりする人もいる。
釣り・行楽

多摩川は水質汚濁が進む昭和中期までは漁業が盛んで、中流では鵜飼、下流ではシラウオ漁が行なわれた[17]。「鮎漁」「生態系」も参照。現在は娯楽としての釣りが行なわれており、遊漁料は、多摩川漁業協同組合の収入源となっている。釣りと他のレジャーとの軋轢もありカヌーイストに暴言を吐いて石を投げつけるなどの行為も発生した[18]

上流ではラフティングなどが行なわれており、多摩川川下り事業者組合には18社が加盟している[19]

多摩川流域を利活用したエコミュージアムは「多摩川エコミュージアムプランの推進」で、平成18年度国土交通省手づくり郷土賞(地域活動部門)受賞。平成29年度には 同賞大賞受賞。

このほか河原に多摩川の水を利用した公園が設置されている。
歴史歌川広重『江戸近郊八景』より「玉川秋月」。現在の東京都調布市近辺から川崎市多摩区方面を望んだものであるという。

多摩川は中流以降、青梅を扇頂とする広大な扇状地を形成し、現在の武蔵野台地の基盤となった。また、その他にあった全ての丘陵(狭山丘陵を除く)を削り去り平坦な地を作った。

数万年前以降、武蔵野台地の隆起により多摩川中流はこの台地の南縁へ押しやられ、現在のように多摩丘陵の北縁を流れるようになった。

流域では旧石器時代以降の遺跡古墳が見つかっており、沿川には早くから人が定住していた様子がうかがえる。
歌枕としての多摩川

古代には多摩川は「六玉川(むたまがわ)」の一つ、「調布の玉川」として知られ、多摩川にまつわる和歌が『万葉集』や勅撰和歌集に数多く収録された。
伝承・宗教

多摩川にまつわる民間伝承や宗教的な言説は少なくない。代表的なものとしては、日蓮宗系の宗教集団内において数多く描かれた日蓮入滅図がある。日蓮は1282年9月に瀬谷で多摩川を渡り、現在の池上本門寺の場所にあった信徒の邸宅に入って翌月にそこで没している。その後、釈迦入滅図に見立てた日蓮入滅図が数多く描かれ、それらに多摩川が描かれることとなった。

また多摩川流域には、多摩川から引き上げられたとされる本尊神体を祀った社寺が10以上も存在する。最も上流にあるのは東京都福生市の関上明神社で、次いで東京都調布市深大寺、川崎市多摩区登戸善立寺や長念寺、東京都世田谷区上野毛六所神社、同瀬田行善寺、大田区西六郷安養寺、同東六郷観乗寺などとなっている。こうした漂着神以外にも、東京都府中市にある大國魂神社の三の宮の御輿は、かつては是政で多摩川の水中に沈められる、いわゆる水中渡御が行われていた。

この他、矢口の渡しで謀殺されたとされる新田義興御霊伝説も広く知られている[20]

1831年には宿河原村にあった松の枯れ木「綱下げ松」に霊験があるとの噂が立ち、江戸からの観光客が大挙して押し寄せ、騒ぎは翌年まで続いた。風紀紊乱を問題視した江戸幕府が徹底的にこれを取り締まり、1833年には「綱下げ松」も伐採されてこの騒ぎは収束した[21]
利水

戦国時代豊臣秀吉の下で関東転封となった徳川家康は、多摩川下流の扇状地での水稲生産を拡大するため、1597年に用水奉行小泉次大夫に命じて両岸の灌漑用水路の建設に着手。1611年二ヶ領用水(右岸)と六郷用水(左岸)が完成した。その他にも、1604年頃より取水を始めたと推定されている大丸用水(右岸)や、1654年より取水を始めた玉川上水(左岸)などの用水路が相次いで整備され、それまで水利が芳しくなかった多摩川下流の低地・台地に豊富な農業用水をもたらし、の生産量が増大、江戸の生活を支えた。
鮎漁

多摩川は元々水質が良く、清流を好む鮎(あゆ、アユ)が多く棲んでおり、江戸時代、多摩川では鮎漁が盛んであった[22]浮世絵にも鮎漁の様子が描かれている[22]。多摩川のあゆは将軍家にも献上された[22]。幕府に納められていた多摩川の鮎は「御用鮎」と呼ばれた[23]。鵜を用いた鵜飼での鮎漁も行われ、鵜飼の鮎漁の写真も残っている[22]昭和初期まで鮎漁は盛んに行われており[22]、年配の地元住民が記憶しているように、水揚げされた鮎は食用にされていた[22]

だが昭和期に多摩川周辺の人口が増え水質が悪化すると、鮎漁は一旦途絶えた[22]。その後、水質改善のための努力が重ねられ水質が良くなり、鮎漁が復活した。最近、地元の漁師が多摩川のことや鮎漁のことを人々に知ってもらおうとの想いで鮎漁を復活させ、多摩川の鮎を出荷している[22]日本橋老舗百貨店三越」の食品売り場にも「江戸前のあゆ」として並んでいる[22]

江戸前すなわち東京湾から遡上する鮎を増やすため、多摩川上流に位置する東京都昭島市・日野市・あきる野市は2018年3月12日、「江戸前鮎を復活させる地域協議会」を発足させた[24]
砂利採掘

多摩川の川砂利採掘について触れた最も古い文献史料は江戸時代中期、宝暦3年(1753年)の日付がある、下丸子村の平川家文書である。これによると、下丸子村と上平間村に幕府から300坪分の砂利を納めるよう指示が下されたことがわかる[注 1]。続いて宝暦5年には源右衛門なる人物が多摩川の砂利を採掘する許可を幕府に申請し、代官所が上平間村から諏訪河原村までの13ヶ村の役人を呼び出して、この採掘に問題が無いかどうか検討させたとの記事もある。宝暦8年には幕府は多摩川砂利を御運上場としている。これは民間の業者を請負人として幕府向けの砂利採掘をさせるもので、江戸松嶋町与兵衛、川崎町源右衛門といった名前が請負人として記録されている。こうした体制は文化2年まで続き、文化3年(1806年)より、八幡塚、下平間、小杉、上丸子、上平間、小向、下沼部、下丸子、矢口、古市場、高畑の9ヶ村が共同で幕府御用の砂利採掘を請け負うこととなった。こうした体制は幕末まで続いた。多摩川砂利の需要は武家が8割、町方が2割と見られており、幕末になって武家に倹約令が敷かれると、多摩川の砂利採掘業は経営が立ちゆかなくなった。

明治以降、建築物にコンクリートが使われるようになると、多摩川はその原材料の一つである砂利の産地として注目された。また鉄道道床用や外航船のバラストとしても多摩川の砂利は多用された。砂利採掘が可能な場所は全国にあったが、需要が集中する首都圏に供給する上で、砂利の輸送コストが低く抑えられる多摩川に砂利採掘は集中していった。関東大震災後の建設ラッシュで砂利需要はピークに達し、大正時代が終わる頃には東海道線鉄橋より下流の砂利は採掘し尽くされていた。採掘場所は必然的に上流へのぼり、宮内、下野毛、北見方、諏訪河原、瀬田、二子はもとより、宇奈根、宿河原、登戸まで拡大した[25]


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