多摩川園
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市街地へ出没したところを警官隊による銃撃により射殺[5]

1964年(昭和39年)の東京オリンピックの年には、年間入場者数約100万人を記録した。そのころには観覧車、丘陵地に登るリフトと滑り台(大山滑り)、野球用軟球を玉に使ったバズーカ砲、ウヰスキーの樽を模した車体のジェットコースターなどの遊戯施設があった。南東側には大きな池がありボートも漕げたが、後に駐車場にするため埋め立てられた。また大規模な室内催事場「読売館」も設置され、夏季の納涼スリラーショー(お化け屋敷)、秋季の菊人形展が人気を集めていた。

しかし1968年(昭和43年)には道路交通への影響を理由に、京浜地域の大イベントであった丸子多摩川花火大会が中止され、観光地としての多摩川園周辺には痛手となる。1970年代には、遊園地に面する集合住宅の増加による近隣紛争や景観の悪化、世相の変化によるレジャーの多様化などから入場者も減少に転じ、周辺道路の渋滞に対する苦情もあって、1979年(昭和54年)6月3日に閉園した。閉園前日の2日と閉園当日の3日には、お別れイベントとして「さよなら多摩川園」が行われ、多くの客が訪れた。
現在

閉園後は、多摩川園ラケットクラブとしてテニスコートを運営していたが、2002年平成14年)に閉鎖された。閉鎖直後敷地は山梨県の不動産業者に売却されたが、屋内テニスコートとして使われていた建物がある多摩川駅からの南側3分1の土地を宗教法人の誠成公倫が取得した。残りの土地は2003年(平成15年)11月に大田区が公園予定地として取得した。このうち、誠成公倫取得地と東急多摩川線沿いの帯状の土地は駐輪場として整備し、残りの土地は2004年(平成16年)8月から公園として一部開放した。2006年(平成18年)7月に公募により公園名称を「田園調布せせらぎ公園」とすることに決定し、本格的に開放された。

付属する休憩施設「松の茶屋」は、その後改築されて旅館となり、隣接地にはレストラン「松籟荘」も建設されたが、現在は取り壊され、多摩川台公園の一部となっている。

かつて多摩川園から丸子橋に抜ける道の両側は「多摩川園前商栄会」商店街として土産物屋や飲食店が立ち並び、観光客でにぎわっていたが、多摩川園の閉園により活気を失い、その後の駅舎と東急多摩川線の改築によって片側の店舗は撤去されてしまった。しかし今でも菓子屋、居酒屋等が軒を連ね、往時の面影を忍ばせている。
脚注^ 駅名は1931年昭和6年)から1977年(昭和52年)まで「多摩川園前駅」、1977年(昭和52年)から2000年平成12年)まで「多摩川園駅」であった。
^ a b 『僕たちの大好きな遊園地』 洋泉社MOOK シリーズStartLine 15、2009年(p.26-27)
^ 白土健・青井なつき 『なぜ、子どもたちは遊園地に行かなくなったのか?』 創成社新書 2008年(p.56)
^ 「繰り出した八十万人」『日本経済新聞』昭和25年10月30日2面
^ 「42貫のクマ逃出す」『朝日新聞』昭和26年2月15日

関連項目

二子玉川園二子玉川駅

こどもの国 (横浜市)こどもの国駅


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