慶応4年閏4月21日、政府は「政体書」を頒布し、政体書七官官制が定められた[14]。この官制の下では、政府は太政官と称され、この中に中央官庁として7つの官が置かれた[14]。その一つが外務省の直接の前身である外国官であり、その長は知官事と呼ばれた[14]。知官事の下には副知官事、判官事、権判、訳官、訳生が置かれ、知官事には伊達宗城、副知官事には東久世通禧が任じられた[14]。
同年5月、議定仁和寺宮二品嘉彰親王が外国事務総裁の宣下を受けた際に大阪におり、その後も伊達宗城が大阪で外国事務を統べていたという理由で七官のうちで唯一大阪に設置されていた外国官を、京都の太政官内に移転することを伊達宗城が奏請した[15][16]。これが受け入れられ、6月3日に外国官は二条城の太政官代に移転する[15]。さらに、9月8日に慶応が明治に改元され、20日に車駕東幸
が行われて、10月13日には天皇が東京城に入城して皇居と定めた[15]。これに伴って東京に五官出張所が設けられることとなり、各国公使が横浜に駐在しているという理由で外国事務は東京で取り扱うこととなった[15]。これにより、外国官は知官事を含めた全官員が東京に移ることとなった[15]。明治2年4月17日、外国官知事・伊達宗城は持病再発を理由に三条輔相に辞表を提出する[17]。この当時、英国公使パークスは英国副領事代理ロバートソン一行や英国軍艦オーシャン号艦長スタノップ一向に対する下車要求事件などを理由に日本政府に不信を表明し、警護のための軍隊の配置などを求めていた[17]。この時のパークスの強硬な態度に耐えかねたことが、伊達が辞表を提出した理由であった[17]。辞表は保留されたが、5月13日に行われた外国官知事の選挙で公選されたされた際にも伊達が奉職の意思を示さなかったため、京都留守官勤務の参与・沢宣嘉が召喚され外国官知事任命の内意を示し、6月25日に伊達の辞表は受理された[18]。その後、6月26日に沢が正式に外国官知事に任じられた[18]。 1871年(明治3年)に、外務省は銀座から霞が関に移転し、江戸時代に建築された大名屋敷の福岡藩黒田邸上屋敷をそのまま使用していたが、1877年(明治10年)2月1日に焼失した。 1881年(明治14年)、英仏人建築家ボアンヴィル(Charles Alfred Chastel de Boinville)の設計による新庁舎が竣工した。 1905年(明治38年)ポーツマス条約の締結(小村壽太郎)により日露戦争に勝利、以後の不平等条約の完全撤廃に繋がった。 1909年(明治42年)、日本電報通信社(現在の電通)に秘密補助金を出して、同省肝いりの在中国日系新聞記者に送電・配信させる構想を練る[20]。 1939年(昭和14年)ニューヨーク総領事館が『米国共産党調書』を発行し、ソ連・コミンテルンとアメリカ共産党による日米分断策動への注意喚起を促した[21][22][23]。その翌年、松岡洋右外務大臣に『米国内ノ反日援支運動』を提出[24]。 1941年(昭和16年)ハル・ノート(原案作成はハリー・ホワイト[25][26])の提示により日米交渉打ち切り。12月に太平洋戦争開戦。 1982年(昭和57年)レフチェンコ事件発生。この事件は外務省を震撼させ、後のスパイ防止法案の審議や特定秘密保護法の制定に大きな影響を与えた。
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