外交
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「現存する外交文書の最古のもの」とされるアマルナ文書

カデシュの戦いの休戦条約を記した粘土板。(大小2点のうち小さいもの。 イスタンブール考古学博物館内オリエント博物館にて撮影。紀元前1274年)

6世紀梁朝元帝(蕭繹)の職貢図の模写。左から且末、白題(匈奴部族)、胡蜜丹、呵跋檀、周古柯、ケ至、狼牙修、亀茲百済波斯滑/??からの使者。

近代

現代へと続く外交慣行は、15世紀末のヨーロッパに起源があるとされている。この時期、イタリアの都市国家群において、各国に外交使節を常駐させるようになった[5][6]。外交を専門的に取り扱う部署を設けて、現代のように運用するようになったのはフランスのリシュリューが1624年に外務省を開設したのちのことである[7]1644年から1648年にかけて三十年戦争の講和会議であるウェストファリア講和会議が行われたが、これはヨーロッパではじめての列国会議であり[8]、以後大戦争の際に大規模な国際会議が開催される先駆けとなった。18世紀にはヨーロッパの外交言語がラテン語からフランス語へと移行し、以後20世紀中期に英語にとってかわられるまでフランス語は外交言語の地位にありつづけた[9]

1814年から1815年にかけて、ナポレオン戦争の戦後処理を目的として開催されたウィーン会議は、列強間の勢力均衡を軸としたウィーン体制をヨーロッパに築き上げ、1870年までヨーロッパに比較的平和な期間をもたらすとともに、以後列国間で国際会議を随時行うことで平和を維持する方針がつくられた[10]。しかしこの方針は19世紀後半の帝国主義時代に機能しなくなり、2つのブロックに分断されたヨーロッパに国家対立を仲裁できるだけの勢力は存在しなくなって、1914年第一次世界大戦が勃発することで破局を迎えた[11]

一方、産業革命を迎えたヨーロッパ諸国の国力は他地域を圧倒するようになり、それまで欧州の外交秩序の外にいたアジアやアフリカの諸国もこの体制に組み込まれることとなった。オスマン帝国16世紀からフランスをはじめとする西洋諸国にカピチュレーションを与えていたが、18世紀に入ると力関係の逆転によってこれが不平等条約化し、カピチュレーションに含まれる治外法権が乱用されるようになった[12]。この治外法権は他国にも適用されるようになり、欧州から見て小国や非文明国とみなされた国家では、法令の未整備を理由としてしばしば治外法権や領事裁判権が押し付けられるようになった。この時期の外交の中心はパリであり、第二次世界大戦においてドイツに占領されるまでその地位にあった[13]
現代1864年ジュネーヴ条約の原本『外交の対称性』(Symmetry of Diplomacy)Ger van Elk、1975年、Groninger Museum.

ヨーロッパにおいて、絶対王政時代から第一次世界大戦終結までは、外交は貴族や国王などの一部の特権階級による宮廷外交が主流であった。各国の大使は母国から独立した大きな権限を保有しており、嘘や謀略を張り巡らし、軍事協定なども秘密にしたため秘密外交とも呼ばれ、2国間外交を基本とした。こうした外交は旧外交と呼ばれる[14]

しかし民主化が進むにしたがって外交の担い手は徐々に貴族から職業外交官へと移行していき、秘密外交の基礎となる共通の階級という前提が崩れていった[15]。ついでロシア革命によって成立したソビエト政権が1917年11月8日に「平和に関する布告」を発し、ロシア帝国時代に結ばれていた秘密条約を公開して、旧来の外交を否定した。さらにこれを受けてアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が1918年1月に「十四か条の平和原則」を発して、やはり秘密外交の廃止を訴えた[16]

こうして外交革命と呼ばれる転換が起き、秘密外交は廃止され、第一次世界大戦後には、列国間の調整機関として国際連盟が設立されるなど、国際協調主義、軍事力行使禁止の原則などが打ちたてられて、選挙を通じた民主的統制に基づく外交が行われるようになった。この転換後の外交形態は新外交と呼ばれる[14]。しかしこの新外交体制は機能不全が目立ち、外交の民主的統制は各国の排外的な空気に振り回され、ナショナリズム民族自決ファシズムの台頭などに何ら手を打つことができず、第二次世界大戦の勃発によって外交秩序は崩壊した[17]

第二次世界大戦によって世界中が大きな損害を被ると、連盟の反省を踏まえて1945年国際連合が設立され、外交の秩序がふたたび構築された。戦後の外交はアメリカ合衆国とソヴィエト連邦の2大国間の対立、すなわち冷戦下で行われることとなったが、いっぽうで国際機関の激増によって多国間外交の重要性が高まり、また交通・通信手段の改善によって政府首脳や本国の機関が現地駐留の大使館を飛び越えて交渉を行うことも多くなった[18]。ソヴィエト連邦の崩壊によって冷戦は終結したが、情報技術の進展によって一般市民も外国の情報を容易に大量に入手できるようになり、非政府組織多国籍企業なども外交に影響力を及ぼすようになった[19]
日本の外交史「貿易史」も参照
先史時代

縄文時代には稲作が伝来しており、縄文後期からは長距離航海のできる丸木舟が作られ始めた。当時の中国貨幣も出土することから、中国西周朝鮮半島箕子朝鮮などとの交流が始まっていたと見られる。
古墳時代から平安時代

邪馬台国は、時代により朝鮮半島の帯方郡高句麗新羅百済高麗渤海国、中国大陸の北魏などと朝貢関係や民間貿易を保っていた。最古の記録としては3世紀末の中国の魏書がある。

2世紀末にはインド僧が渡来し千如寺を建立したとされており、こうした伝来技術による発展は目覚ましかった。大陸の制度を模して部民制(朝廷職)も整えられたが、これは世襲制の形になった。伊都国を貿易拠点として、仏像や船の材料である辰砂クスノキなどの貿易が行われた。三韓征伐も行われ、3世紀には倭が朝鮮半島の任那伽耶に進出した。4世紀に帯方郡が滅びると国内も混乱したが、5世紀には倭の五王が立ち、それぞれに遣宋使を派遣した。6世紀には北魏渡来の僧が霊泉寺を建立した一方[注釈 1]新羅出陣時におきた磐井の乱などの影響で、外交及び海外貿易施設、国防施設として大宰府の前身や筑紫館が設置された。日本は600年に遣隋使を派遣しはじめ、838年の最後の遣唐使を送るまで中国大陸への朝貢を行った。

一方官僚試験制度である科挙制度などは輸入されず、飛鳥京は百済復興のための白村江の戦いに敗北して百済人避難民が多く渡来し、百済人も多く部民となった。このため律令制が敷かれた当初は百済文化の影響が強かったが、のち壬申の乱をきっかけに鮮卑の部族の影響が強まり、藤原京平城京様式となり、木簡も多く使用されるようになった。


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