夏祭浪花鑑
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七段目:長町裏(通称:泥場)

堺筋の東側にある長町裏[1]。団七は駕籠に追いつき義平次をなじるが、「おれはお前の愛想尽かしを待っていたのじゃ」と反省の色もない。団七はとっさに石を懐に入れ、「親父どん、友達ちゅうのはええもんでんなあ。わしが入牢中に頼母子講で三十集めてくれましてな。今、ここにござりますねん」と嘘を言う。義平次は金を貰えると聞いて態度を一変させ駕籠を返すが、「アニよ、その金は?」「さあ、その金は…」「その金は?」「…その金、ここにはござりませぬわい」と金子に見せかけた石を出す。怒った義平次は団七を打ち据え、「ようもようも、この仏のような親をだましくさったなあ」とついには団七の雪駄で額を打ち傷を負わせる。「ああ痛タ…おやっさん?、何ぼ何でもこないにドクショウに打たいでもええやろが」とぼやきながら団七は額に手を当て、血がついていてびっくり。「こりゃこれ男の生き面を…」と憤る団七「打った、はたいた、打ったがどうした、なんとした」とにらみ付ける義平次。思わず刀に手をかける団七。「何じゃい、何じゃい、われはわしを切りさらすのか」「あ、いやおやっさん、さようなことができまっかいな…」舅といえば親も同然。我慢に団七は我慢を重ねる。義平次は図に乗り、「これよく聞け、舅は親じゃぞよ、親を切ればな、一寸切れば一尺の竹鋸で引き回し、三寸切れば三尺高い木の空で、逆じゃぞよ、さあ切れ、これで切れ」と刀をつかんで挑発する。「おやっさん、やめとくんなはれ、危ないがな」「さあ、殺せ、殺しさらせ」と言い合ううち、ついには刀を取り合う揉みあいとなる。

刀の鞘が走って団七は義平次の肩先を斬ってしまう。「うわあ、切りやがった、親ごろし?」「親父どん、何いうんじゃい、ええ加減にだだけさんすな」と義平次の口を押さえたときに、団七は血糊に気づきもはやこれまでと、だんじり囃子の聞こえる中、義平次を惨殺する。屍骸を池に捨て、井戸水で身体を洗った後「悪い人でも舅は親、親父どん、堪忍してくだんせ」とだんじりの群集にまぎれて去っていく。
見どころ

凄惨な殺人劇だが、暗い舞台と祭りのだんじりの灯りの対比、鮮やかな刺青と真紅の下帯の色、本水、本泥の使用など夏の季節感と見事な色彩に彩られた名場面で、様々な美しい殺陣の見得は、この狂言一番の見せ場でもある。九代目團十郎は刺青を入れない演出を取っていた。

団七が殺人に至るまでの描写は丁寧に演じられる。団七は侠客ぶっていても所詮はしがない魚の行商人であり、しかも自分を拾ってくれた恩人で愛妻の父である義平次への敬意もあり、何とかしてうまく収めようとする苦心の演技が眼目である。特に、心ならずも嘘をついた事が発覚した時、「この金ここにはござりませぬ。」と手拭いに包んだ石を出し、手拭いを頭にかぶって縮こまる上方式演出が、団七の切羽詰まった心理をうまく表している。

舞台前の切り穴に泥を張った「泥舟」が池の役割となる。義平次はここに飛び込み、団七にからみ蛙の見得をしたりするので「泥場」と呼ばれる。二代目延若は立ち回りには細かな演出を行い、浴衣を脱いでかける竹垣の位置まで指定したが、全く不自然さがなく、十一代目仁左衛門は「うまいなあ。」と何度も感嘆するほどであった。幕が終わると、義平次役の役者は全身泥だらけで、洗い落とすのに一苦労する。

義平次は、欲に目がくらんだ醜悪な老人である。いかに生々しく憎くやるかで、団七が引き立ち観客も団七の苦渋と殺人に至る経過が理解できる。戦前の六代目大谷友右衛門中村魁車、近年では三代目實川延若四代目淺尾奥山中村源左衛門、四代目市川段四郎など腕のいい役者が印象的だった。最近は、十八代目中村勘三郎が「平成中村座」でつとめた時の笹野高史が好評だった。この場面では忠臣蔵の三段目「喧嘩場(刃傷)」の気持ちでやることという口伝がある。二代目實川延若の団七は、義平次との口論で上下を眺めて「これ、何もおまへんで。何もないさかいに……」との捨て台詞を吐きつつも周囲に気を遣うという演出だったが、その呼吸が絶品だった。文楽では人形遣いの初代吉田玉男が義平次を憎々しくやればやるほど団七が引き立つという理由で、義平次役を好んで演じていた。

幕切れは、祭囃子のだんじりを登場させ、団七が一人の腰から手拭いを抜き取ったのを頬被りして、みんなが去った後、「ちょうさや。ようさ」と囃子言葉を震えながら言って引っ込む形が普通だが、二代目實川延若は、引っ込みの際、若い者が不審そうに義平次の沈んだ池を覗き込むのを、団七が「ちょうさや。ようさ」と囃子言葉で遮り二人で踊りながら花道を入る演出だった。これは平成18年(2006年)7月大阪松竹座において、四代目坂田藤十郎が復活させた。

なお原作では、徳兵衛が通りかかり、団七の雪駄をひらうところで幕となっていた。義平次と徳兵衛が二役早替わりの演出もあるが、これは無残な死に方をした役の俳優が、幕切れに美しい姿で出る歌舞伎特有の演出である。
八段目:田島町団七内(通称:蚤とり場)

三婦と徳兵衛の情けでお梶と長松は備中へ。捕り手の乱入後徳兵衛は縄をかける代わりに逃亡資金として金子を団七に渡す。
九段目:玉島徳兵衛内

佐賀右衛門の悪事露見と磯之丞の勘当が解け、三婦とお梶に伴われた長松が団七に縄をかけるが、兵太夫により団七の減刑が約束される。
概説

初夏のさわやかな季節感漂う鳥居前。夏祭りの風情と義理人情の哀歓を描いた三婦内、そして歌舞伎狂言中屈指の殺し場である長町裏。と、それぞれ見どころがあるが、大坂を舞台としており、上方歌舞伎の濃厚な風情が要求される。団七は、かつては二代目實川延若、戦後は三代目實川延若、十三代目片岡仁左衛門が得意とした。東京でも、九代目市川團十郎初代中村吉右衛門十五代目市村羽左衛門、十七代目中村勘三郎、二代目尾上松緑などが江戸に上方式を融合した演出を取っていた。現在では十八代目中村勘三郎、二代目中村吉右衛門、四代目坂田藤十郎、三代目市川猿之助などが得意としている。

もともと、元禄11年(1698年)に初代片岡仁左衛門の初演した『宿無団七』が原作で、同じ系統に「宿無団七時雨傘」があり、現藤十郎らによってたまに上演されている。初演時、人形遣いの初代吉田文三郎が人形に初めて帷子を着せ、「長町裏」ではじめて本水と泥を演出に用いるなど、演劇史上画期的な作品でもある。また、書き換え狂言として団七ら主要人物を女にした「夏姿女団七」や四代目鶴屋南北の傑作「謎帯一寸徳兵衛」などがある。劇中、団七が着る帷子の柿色の縞は「団七縞」と呼ばれ、その後の書き換え狂言にも採用されている。

上方の雰囲気がこの狂言の生命といわれ、戦後は東京も上方の演出を重視する。かつて十三代目片岡仁左衛門は、上方色の乏しい東京の某歌舞伎役者の団七を観て激怒し、二代目中村扇雀に、「これは、上方歌舞伎への冒涜や、あんさん、手本に団七をやっておくれやす」と頼み込んだという。

典型的な夏狂言で、春や冬には上演されない。外題にあるように夏が背景にあるのと、「長町裏」の殺しの場で素裸になって本水を使うためでもある。

1949年(昭和24年)初代吉右衛門は皇居の午餐会に招かれた際、昭和天皇の御前で「長町裏」の団七と義平次のやりとりを実際に演じながら説明し、父三代目中村歌六と共演した時の思い出や裏話を紹介した。
名優の芸談

「団七の役は夏芝居らしくサッパリとしている中に、上方の芝居らしい粘りと曲な動きの面白みを見せなければならず……住吉前(鳥居前)の牢払いのむさくるしい姿から、二度目の床屋から出る浴衣姿との対照が。


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