夏目漱石
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南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁鉄道院総裁、東京市長貴族院議員などを歴任した官僚出身の政治家中村是公の親友としても知られる。
生涯
生い立ち夏目漱石誕生之地碑夏目漱石の母・千枝

夏目金之助は、1867年2月9日慶応3年1月5日)に江戸牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持ち、生活も豊かだった[6]。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといわれている。

名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。

金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[6]。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出された。夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。
幼少期5、6歳頃の金之助

金之助はその後、1868年明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった[7]。しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻った。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。

養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続いた。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。

1874年(明治7年)、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学後、金之助は市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。
少年時代

12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校[注釈 2] に入学した。大学予備門(のちの旧制第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため、中学には2年ほどの在籍で1881年明治14年)に中退し、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学した。ただし、長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている[8]

しかし、長兄・大助が文学を志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。

2年後の1883年(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎[注釈 3] に入学し、頭角を現した。大学予備門時代の漱石

1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学した。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。その友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁となる中村是公がいる。予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人佐藤友熊橋本左五郎中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。

1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称された。その年、金之助は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第した。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活した。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた[注釈 4]
正岡子規との出会い夏目漱石句碑「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉」(京都市中京区御池通木屋町東入ル)。

1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人正岡子規と出会った。子規が手がけた漢詩俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まった。


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