夏の夜の夢
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@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ヨーロッパでは夏至の日やヴァルプルギスの夜に、妖精の力が強まり、祝祭が催されるという言い伝えがある。劇中でも小妖精のパックや妖精王オーベロンなどが登場する。特にトリックスター的な働きをするパックは人々に強い印象を与え、いたずら好きな小妖精のイメージとして根付いている。パック(Puck)はもとはプーカ(Puka)などとして知られていた妖精のことである。[要出典]
midsummer nightの時期と日本語訳題

英語の midsummer は、「盛夏」または「夏至」(6月21日頃)を意味し[2][3]、Midsummer Night は聖ヨハネ祭(Midsummer Day)が祝われる6月24日の前夜を指す[4][5]。ヨーロッパでは、キリスト教以前の冬至の祭りがクリスマスに吸収されたように、夏至の祭りも聖ヨハネ祭に移行した。この前夜(ワルプルギスの夜)には、妖精や魔女が地上に現れる、男女が森に入って恋を語るのが黙認される、無礼講の乱痴気騒ぎをする等、様々な俗信や風習があった[4][5]。劇の表題と内容はこれに一致する。

ところが、この芝居は6月23日に設定したものではなく、第4幕第1場に「きっと五月祭を祝うために早起きして……」[6]というシーシアスの台詞があるように、森での騒ぎは五月祭(5月1日、May Day)の前夜の4月30日であることがわかる。五月祭もまた自然の復活・再生を祝うもので、夏至祭の民間行事と多くの面で共通している[4]

この表題と実際の劇中の設定時期の不一致は古くから論争を呼んでおり、たとえばサミュエル・ジョンソンは、既に『シェイクスピア全集(英語版)』(1765年初版発行)において「シェイクスピアは、この劇が五月祭の前夜のことだとこんなにも注意深く我々に伝えているのに、彼がなぜ『A Midsummer Night's Dream』と題したのか、私には分からない!」と第4幕で注を付けている[7]

一つの説明として、midsummer が時節そのものを指すものではなく、真夏の熱に浮かされた狂乱・狂気を意味するという考えがある[4][5]。実際、シェイクスピア劇の中では、"This is very midsummer madness" (『十二夜』 第3幕 第4場)や "hot midsummer night" (『お気に召すまま』 第4幕 第1場)といった表現が見られる。

日本では坪内逍遥以来『真夏の夜の夢』という訳題が用いられてきたが、土居光知(1940年)は「四月末の夜は、我が国の春の夜の如く、(中略)夏至の夜と雖も英国の夜は暑からず寒からず、まことに快適である」というように、日本語の「真夏」を指すものに当たらないと考え、『夏の夜の夢』と訳した。福田恆存(1960年)も、「『Midsummer-day』は夏至で、クリスト教の聖ヨハネ祭日(注:前出)前後に当り、その前夜が『Midsummer-night』なのである。直訳すれば、「夏至前夜の夢」となる」とし[8]、これに続いた。以来、日本では『夏の夜の夢』の訳題で出版されることが多い(小田島雄志松岡和子など)。

一方、大場建治は「せめてこれを『真夏』として恋の狂熱を示唆しようとした逍遥の訳語の選択は、まことにぎりぎりのみごとな工夫だった」と逍遥訳を評価し、逆に土居訳を「背景の五月祭のイメージをそのまま律儀に信じ込んだ」ものであると批判している[4]。自身の訳(2010年)も「真夏」を採用している。

『真夏の夜の夢』の題名は古くから親しまれ定着してきたため、1999年公開のアメリカ映画の邦題に用いられた他、今日でもメンデルスゾーン作曲の序曲・劇音楽などでしばしばこの表記が用いられている。
材源『夏の夜の夢』第4幕第1場の版画、1796年に発表されたヨハン・ハインリヒ・フュースリーの「ティターニアとボトム」より。

主筋の明確な種本と言えるものはない[9]。特定の先行作の翻訳あるいは翻案といえるようなものではないが、オウィディウスの『変身物語』やジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』に入っている「騎士の話」などが部分的に元になっている[10]。シーシアスとヒポリタの物語はプルタルコスの『英雄伝』に収録されている「シーシアスの生涯」、ボトムがロバになる展開についてはアプレイウスの『黄金のロバ』、妖精については古代や中世の文学から民間伝承までさまざまなものを参照していると考えられる[9]。ジョン・トワイニングによると、4人の恋人が森で試練を経験するというこの芝居のプロットは中高ドイツ語の詩であるDer Busantの一種の「変種」である[11]ジョゼフ・ノエル・ペイトン「オベロンとティターニアの争い」(1849)
執筆年代

1598年にフランシス・ミアズが刊行した『知恵の宝庫』に本作への言及があるため、それより前に初演されていたことは間違いがない[12]。ドロシア・ケーラーによると、本作が書かれた時期は1594年から1596年の間頃だと考えられ、これはシェイクスピアがおそらく既に『ロミオとジュリエット』を完成させ、『ヴェニスの商人』を構想中だった頃である。著者にとってはキャリアが中期にさしかかった頃であり、叙情に重きを置いていた時期である[13]
刊行

本作は1600年10月8日に書籍商トマス・フィッシャーにより出版組合登録簿に登録され、フィッシャーは年内に最初のクォート版を刊行した[14]。この初版のタイトルページには1600年より前に「何度も人々の前で上演された」芝居だと記載されている[15]。 第二クォート版は1619年にウィリアム・ジャガードがいわゆるフォールス・フォリオの一部として印刷した[14]。次に刊行されたのは1623年のファースト・フォリオに収録された時であった[16]
上演史
17 - 18世紀ウィリアム・ブレイク「オベロン、ティターニア、パックと妖精たちの踊り」(1786年頃)

『夏の夜の夢』はシェイクスピアの時代から21世紀にいたるまで、継続的に上演されている[17]。初演は1598年より前と考えられている[12]。記録に残っている上演としては、1604年1月に宮廷で演じられた「ロビン・グッドフェローの芝居」は本作ではないかと考えられる[18]

イングランド内戦から空位期にかけて劇場が閉鎖された1642年から1660年の間は、主筋がカットされ、ボトムたち職人が登場する笑劇が上演されていた[19]。1662年9月29日にはイングランド王政復古で再開した劇場でサミュエル・ピープスが『夏の夜の夢』を見て、低評価を下している[20]

王政復古以降、1840年まではしばらく翻案やカット版が上演されるのが常であった[21]。1692年にはヘンリー・パーセルが作曲した『夏の夜の夢』に基づくマスク妖精の女王』が上演され、1716年には『ピラマスとシスビーのおかしな仮面劇』というバーレスク作品が上演されている[21]。チャールズ・ジョンソンは『お気に召すまま』にピラマスとシスビーの劇中劇を組み込んだ『森の恋』を1723年に発表した[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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