明和9年(1772年)9月に田沼意次が南鐐二朱銀の発行を命じ、また天保8年(1837年)に一分銀が発行され、これらの計数銀貨の流通が丁銀を凌駕するようになると、銀貨も両の通貨体系に取り込まれるようになり、事実上の固定相場制となった。このような定位銀貨の台頭により、小判に対し変動相場で取引される丁銀の流通は空洞化し、銀目取引は大部分が藩札および手形などに置き換えられた[2][4]。さらに江戸時代は米も通貨のような役割を果たしていたため、通貨制度はかなり複雑なものになっていた。
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e 高橋洋一 『高橋教授の経済超入門』 アスペクト、2011年、43頁。
^ a b 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年[要ページ番号]
^ 三井高維編 『新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇』 岩波書店、1933年[要ページ番号]
^ 田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館、1963年[要ページ番号]
関連項目
固定相場制
円相場
金融センター
ブレトン・ウッズ協定
ニクソン・ショック
アジア通貨危機
経済
ミルトン・フリードマン - 提唱者。
典拠管理データベース
スイス歴史辞典