声優
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これを受けて1960年(昭和35年)には東京俳優生活協同組合(俳協)が誕生したが、前述の若山弦蔵のように所属せず独立した者もいた[注 5]。のちに俳協から分かれて多くの声優プロダクションが結成された。

1961年(昭和36年)、音声制作会社である東北新社が設立されている。

この時代にはまだ声優という言葉は一般には認知されておらず[85]、別称として、吹き替えを主にしたことから吹き替えタレント[86]、吹きかえ屋[87]、声をあてることからアテ師[88][87]、アテレコ・タレント[87]というものがあった。

また、海外ドラマブームに沸く状況は、アテレコ調が蔓延する状況でもあり、1962年(昭和37年)には、戦前から活躍する俳優の東野英治郎らが新聞紙面上に意見を表明している。一連の役者論、演技論を巡る論議は、後世においてアテレコ論争と記録された。それはともかく個性とか性格とかいうものが出せるものなんだろうか?演技しているうちの心理の動きなり動作なりは全くの他人がやっていて、しかも言葉の音質の違う人間がやっているものを、声だけ貸すというのは、どうしても一つの便法にすぎない。

そのために一つのセリフ調子というものが出来上がっていて、声の色もそれらしい声を要求されるのだろうが、こうしたことが長くつづくとどういうことになるだろうかと考えると、ゾッとするような気がするのである。(中略)
現在ではこれも俳優の職業の一つになってはいるが、俳優は大へんなギセイを払わされているわけである。うかうかすれば片輪になりかねないからである。もちろん出演される俳優諸君もこんなことは百も承知だろうと思うが老婆心までに、ことに若い俳優諸君に申し上げたい。制作者の方もこの点を十分考えてあげてほしいように思う。俳優としてはいわば危険な仕事になってくるわけであるから、危険手当てとでもと考えて十分の報酬をあげてほしいものである。 ? 東野英治郎『“声”優に危険手当てを』他人の演技に合わす苦しみ[89]鉄腕アトム

1963年(昭和38年)、日本放送芸能家協会(現:日本俳優連合)が発足している。代表には徳川夢声が就任し、設立総会では「著作権制度と放送法の改正を前にして日本放送文化の向上という公益のために結成」した事を宣言した。また、音声制作会社であるグロービジョンが設立された。

同年、国産初の30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(主演声優:清水マリ)の放送が開始され[90]プレスコ方式が主流であった従来の劇場用アニメ市場とは異なる、アフレコ方式を採用したテレビアニメ市場が形成されて行く[91]バークにまかせろ

同年、文部省が公示した学習指導要領が実施され、高等学校課程に現代国語が創設されている。改定委員となった国語学者時枝誠記の下で、経験主義から能力主義への転換が図られている。言語過程説を提唱した時枝は後述の福田の師に当たった[92]

同年、財団法人・現代演劇協会劇団雲が設立されている。雲の会の会員であった福田恆存、芥川比呂志、小林秀雄、大岡昇平、中村光夫、今日出海らが役員に就任し、その継承を志向した。築地小劇場以来の新劇の亡霊を排し、日本における正統劇(せりふ劇)の確立を目指す事を謳った。また、同協会は設立趣旨の一つとして、役者に存在する「学校の違い」などの縄張り意識の追放を挙げている[93]

1964年(昭和39年)、日本テレビが『バークにまかせろ』の放送を開始する。翻訳は篠原慎、演出は左近允洋、主演は若山弦蔵が担当した。前述の勝田久の見解によると、アテレコ調からの脱却はこの番組の頃からであり、その路線は翌年の『0011ナポレオン・ソロ』にも踏襲されたとしている[94]。後述の野沢那智も出演者の一人であった。
1970年前後

1966年(昭和41年)に『土曜洋画劇場』(現:『日曜洋画劇場』)の放送が始まり、この番組によってスターの声を特定の声優に固定する持ち役制(フィックス制度)が始まった[95]

1967年(昭和42年)、放芸協の常務理事・久松保夫が『テアトロ』に『俳優ユニオンの提唱--劇団経営の合理化を含めて』を寄稿する。

1968年(昭和43年)、文部省の外局として文化庁が設置されている。初代長官には今日出海が就任した。

同年、読売テレビがテレビアニメ『巨人の星』(演出:長浜忠夫、主演:古谷徹)の放送を開始する。長浜は作品作りにおいて声優のディレクションを重要視した。その影響を受けた一人である富野由悠季は「人形劇をやっていらっしゃった方とは聞いていたが、ダイナミックに動き回り、アフレコ前のラッシュに自分で科白をあてて台本をチェックする監督なぞ、長浜監督をして初めて知った」と記している[96]

1969年(昭和44年)、声優に特化した俳優事務所として青二プロダクションが設立されている。俳協のマネージャー出身の久保進が、東映動画の要請を受け創業した。当時、アニメへの出演者は権利問題などを抱えていた事もあり、その出演交渉は困難な状況にあった[97]

1970年(昭和45年)、著作権法の全面改正が行われ、著作隣接権として実演家の権利が制定されている[98]

1971年(昭和46年)、日本俳優連合(日俳連)と、音声制作会社7社で構成された紫水会(現:日本音声製作者連盟)が結成される[99]。また、この年には映画会社の五社協定も、自然消滅を迎えている。日本のテレビアニメの放送開始から8年後のこの年、大人向けアニメ番組への挑戦がなされ、『ルパン三世』が制作された。放送局は前述の読売テレビ、主演は山田康雄が担当した(なお、山田は声優の呼称を嫌った)。本放送時は失敗に終わったが再放送の度に評価が高まり、1977年(昭和52年)には、続編として第2シリーズが制作され、さらに本作の放送中には、劇場用アニメーションとして『ルパン三世 ルパンVS複製人間』、『ルパン三世 カリオストロの城』の2作品も公開されて、アニメブームを牽引した[100]刑事コロンボ

1972年(昭和47年)、NHKが海外ドラマ『西部二人組』の放送を開始する。アテレコの世界のイメージを変えようという目論見があり、当時の若手俳優が選ばれている。俳優座からは新克利が、文学座からは江守徹が起用された。日本語吹替版の製作は東北新社が担当している[101]

さらに同時期、NHKは海外ドラマ『刑事コロンボ』の放送を開始している。同作品のアテレコには雲から小池朝雄が起用された。小池は『パパは何でも知っている』などへの出演歴を有していた。こちらの日本語吹替版の製作はグロービジョンが担当している[102]

1973年(昭和48年)、日俳連において、「外国映画日本語版の権利を護るための俳優集会」が開催された。吹き替えの仕事をする俳優全員の70%に当たる158名が参加し、さらに抗議団には187名が参加した。紫水会との間で交渉が行われ、業界の正常化と公正なルール確立のため、共同で対処する事が合意された。これにより出演料は平均3.14倍の増額となっている[103]

1974年(昭和49年)、映画雑誌『スクリーン』(発行:近代映画社)が「人気声優インタビュー」の連載を開始する。 シリーズは1980年12月号まで継続し、合計で84回を数えた[104]。また、この年には江崎プロダクション(現:マウスプロモーション)が設立されている。
1980年前後

1975年(昭和50年)、TBSが『刑事コジャック』の放送を開始する。翻訳は額田やえ子、演出は岡本知、主演は森山周一郎が担当した。額田は前述の『刑事コロンボ』も担当しており、翻訳面でも更なる進展が見られた。また、同番組のファンであったアニメ演出家の宮崎駿は、1992年(平成4年)に公開した『紅の豚』において森山を起用している。

1976年(昭和51年)、『毎日新聞』が『テレビ洋画の吹替え声の主役たち=xを掲載し、声の吹き替えの歴史について報じた。


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