声優
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

これが声優第2号とみなされ[56][注 4]、「声優」という言葉はこのころから使われたとする資料もある[58]

1948年(昭和23年)、劇団俳優座の創設者の一人である千田是也が戦前の路線の見直しの一環として、岸田國士ら「劇作派」の上演を開始する。千田は創作劇研究会の第1回試演において、「私どものような築地時代に翻訳劇ばかりで育つて来たものには、日常的なリアルな生活動作の中に心持ちを盛る芝居の勉強ができていず、大いに『物真似』の練習をしなければいけない」と表明した[59]

同年、劇団民藝の創設者の一人となる滝沢修が『俳優の創造』を発表する。滝沢は「『新劇調』といふのは」と題した項目において、自らの芸風をアマチュア芸から遠く出ない青臭さであると断じ、「輸入文化が伝統に根ざしていないと同じに、それを浅く漁って満足していた私たちの足が、本当に生活者として地についていなかったからである。」と表明した[60]

1949年(昭和24年)、文学座の創設者の一人である岩田豊雄(獅子文六)の計らいにより、加藤道夫芥川比呂志らの麦の会が合流する。岩田は座員の芸に安易なものが生まれかけ、若い世代もそれに倣う危険から揺り戻す必要が生じたと論じ、「どうも彼等は、日常的なセリフやシグサには長じているが、想像力を伴わなければならぬ演技は、ひどく不得手に見えた」との見解を示した[61]

1950年(昭和25年)、岸田國士が文学立体化運動を提唱し、雲の会を主宰する[62]。会員の三島由紀夫は、「自由劇場以後の日本の新劇は、大ざつぱにいふと、築地小劇場の飜訳劇中心主義から、左翼演劇への移りゆきとともに、技術的基礎づけに誤差を生じ、また政治的偏向を生んだ」と指摘した。そして、築地小劇場論争以来の混迷を正常化する最初の機会として、今回の文壇、劇壇の連帯の意義を説いている。中部日本放送放送劇団

1951年(昭和26年)、日本での民間放送が開始する。対日占領政策の転換から民放が解禁された結果、戦前からのNHK独占体制が崩れている。民放各局はNHKに倣う形で中部日本放送放送劇団など専属の放送劇団を設立して行く。

同年、雲の会の一箇年の活動を振り返る座談会が開催され、機関紙である『演劇』が掲載している。文壇側からは鉢の木会のメンバーでもあった神西清、中村光夫大岡昇平福田恆存、三島由紀夫が選出された。「劇壇に直言す」として、新劇独自の固定観念を指摘し、既成新劇への問い直しを求めている。劇壇側からは内村直也、田村秋子、千田是也、杉村春子、菅原卓が選出された。「『直言』に答う」として、反省する点を認める一方、俳優術による演劇表現のアカデミズム確立や現代劇の樹立を重視する意見が出されている[62]

これを受けて『演劇』は、会員の小林秀雄と福田恆存の対談を企画した。その中では声音メディアの未来への示唆も語られている。

小林 純粋な観念としては音楽だから。……一般に人間の耳っていうのは、よくないと思うんですよ。みんな悪いんです、耳っていうものは。

福田 ほかの感覚に比べて?小林 ええ。眼に比べてね。特に耳を訓練している少数の人々をのぞけば。だからまだラジオ・ドラマをちゃんと聴ける耳を持っている人はいないと思うんですよ。人の声っていうものは、非常に表情に富んだものでしょう。見ないで、声で人間がわかる、そこまで耳の訓練が出来ている人はいないんだよ。ラジオ・ドラマが非常に発達すると、そういう訓練ができるかも知れない。そうすると、見なくても、声のほうがよっぽど表情的でね、ラジオ・ドラマ専門の名優というものが出てくる。……ぼくら、眼を開けて暮しているから、耳はおろそかになっている。芝居っていうやつは、眼と耳と両方で鑑賞しているしね。まあ、はなし家や講釈師になるとどうかな。例えば落語だって、話術の生命はやっぱり物語を追ってるんだけども、同じ物語を何度聴いてもいいでしょ? 何度聴いてもいいというのは、つまり音なんだよ。そいつの声の音楽なんだよ。そいつを聴いて楽しんでるわけだな。 ? 小林秀雄、福田恆存『芝居問答』 音・耳・放送劇[63]

テレビ放送がなく、ラジオがマスメディアで主要な地位を占めていたラジオドラマ時代の声優は決して日陰の存在ではなく、二枚目の主役の声を多く演じた名古屋章には月に何十通ものファンレターが届いたという[64]1957年(昭和32年)に放送した連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』は当時の子供たちから絶大な支持を得た。ラジオドラマは全盛期を迎え、声優の紹介記事が新聞のラジオ欄に掲載されるようになると、声優へのファンレターと同時に声優に憧れ、声優志願者も急増した。

1953年(昭和28年)のNHK東京放送劇団の第5期生募集には、合格者が10名程度のところへ6,000名の応募が殺到したという。東京放送劇団出身の勝田久は、この時代を第1期声優黄金時代としている[65]。日本でのテレビ放送が開始された1953年(昭和28年)2月当時、NHK専属の放送劇団員は、東京・大阪・名古屋・広島・福岡・仙台・札幌の7劇団で合計137名を数えた。
テレビ初期

1953年(昭和28年)、日本でのテレビ放送が開始する。

1954年(昭和29年)、ウォルト・ディズニー・プロダクションがアニメーション映画『ダンボ』(1941年制作)を日本公開する。日本語発声版(吹替版)の脚本は高瀬鎮夫、音楽監督は三木鶏郎が担当した。出演は坊屋三郎、古川緑波、三木鶏郎、丘さとみ七尾伶子ほか。三木は後の『わんわん物語』、『バンビ』、『白雪姫』、『ピノキオ』では日本語版監督も務め、声優を人選した[66]

同年、岸田國士が急逝する。これにより雲の会は自然消滅を迎えている。芥川比呂志 (撮影:土門拳

1955年(昭和30年)、福田恆存が翻訳と演出を担当して、『ハムレット』を上演する。ハムレット役は芥川比呂志が担当した。当時の福田は文学座の文芸部員でもあり、幹事の岩田豊雄が新劇が傾倒する近代劇の在り方に疑問を持つようになっていた事も上演を後援した[67]。舞台芸術として最高度の文学性と演劇性を両立したという評価から、「シェイクスピアに還れ」とした基調は、後の新劇運動の方針にも反映された[68]。また、札幌放送劇団に所属していた若山弦蔵はこの公演を観劇し、演技のヒントを得たことを明かしている[69]

6月、菊田一夫が『「大盗大助」の公演』を『放送文化』に発表する。今回の東京放送劇団の舞台公演で、脚本と演出を担当した経緯について解説した。NHKで『鐘の鳴る丘』や『君の名は』を手掛けるなど放送劇でも活躍していた菊田は、ラジオ俳優に舞台公演の必要があるかどうかという問題はかなり重要な事であると指摘し、「マイク前の声技にも、その演技の奥行を深め、幅をひろげる意味で、絶対に必要だからである」との見解を示している。その理由については、「私はラジオ・ドラマの稽古に立会っていて、いつも『君、君のセリフには動きがともなっていないよ』と、いう言葉で、声優を叱りつける」と述べており、責任上から実際の体験を提供したと説明を行った[70]

1956年(昭和31年)4月8日、日本テレビが海外テレビアニメ『テレビ坊やの冒険』の放送を開始する。録音方式の日本語吹き替え番組の第1号であり、番町スタジオの安井治兵衛に依頼して制作された[71]。4月28日、TBSの前身であるKRTテレビが海外ドラマ『カウボーイGメン』を放送する。10月9日には、海外テレビアニメ『スーパーマン』を放送する。出演者の滝口順平大平透は、いずれもラテ兼営の同局のラジオ東京放送劇団に所属する放送劇団員であった。これらKRTテレビでの吹き替え放送は生放送で行われている[72]

民放テレビの草創期には、同年10月の五社協定でテレビ局への日本映画の供給停止が決まったことなどによるソフト不足から、海外ドラマやテレビ映画洋画などのいわゆる外画の日本語吹き替え版が数多く放送された[73][74][75]。テレビや映画の俳優は五社協定とギャラの問題で吹き替えをしなかったため、テレビでの吹き替えは、ラジオ時代からの放送劇団出身者や戦後の新劇ブームで増加した舞台役者やその研究生が多く行った[76]。戦前からの流れを汲み、この当時において三大劇団と目されていた文学座、俳優座、民藝の俳優は、未だアテレコとは縁遠かった。海外アニメにおいては、落語家や浅草出身のコメディアンなどもキャラクターの声をあてたという例がある。

吹き替えの開始当初は生放送でも行われ、後にテープレコーダーを利用した録音方式となるも、未だ編集は不可能であった。声優陣は狭いスタジオに存在する1つのスクリーンと1本のマイクに臨み、効果音や音楽も同時に録音していた。1ロール28分間の収録では、誰かが間違えて失敗すれば最初から録り直すという負担の大きいものであり、さらにせりふの悪訳も輪をかけ、「アテレコ調」の出現を招いている[77]

江崎プロダクションの創業者である江崎加子男は、舞台や映像で仕事がある役者がアテレコに好んで出演しなかった理由として、ギャラ問題の他にアテレコ調の存在を挙げている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:422 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef