声優
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

洋画の吹き替えでは、1931年の米映画『再生の港』が初の日本語吹き替え作品だが、起用された在米邦人の広島訛りが不評で後が続かなかったという[36]
ラジオドラマ史愛宕山の東京放送局

1925年(大正14年)3月、NHKの前身である社団法人東京放送局が日本初のラジオ放送を開始する[37]

そのわずか1か月後に『映画劇せりふ』の番組内でサイレント映画『大地は微笑む』のセリフ劇が放送された。このときの声の出演は新派劇俳優の井上正夫、女優の栗島すみ子などであった。専門職としてではないが、実質的に彼らが「日本で最初の声優」である[38][注 1]

7月には舞台中継をスタジオで再現した『桐一葉』(出演:中村歌右衛門(5代目)など)が、さらに日本初の本格的なラジオドラマとして『大尉の娘』(出演:井上正夫、水谷八重子)が放送される。8月に小山内薫の演出、和田精音響効果で放送された『炭鉱の中』とする説もある[39]。出演者の一人であった山本安英は後に東京放送劇団の指導者を務めている。

8月、東京放送局にラジオドラマ研究会が設立される。長田幹彦、小山内薫、久保田万太郎、久米正雄長田秀雄吉井勇の6人を主要メンバーとした[40]。さらに聴取者の獲得の為に著名な文士に一編五百円で脚本を委嘱する。当時の五百円は一軒家が建つほどの金額であり[41]、2年間で「五百円ドラマ」に脚本を寄せた文士の顔ぶれは里見ク松居松翁、小山内薫、長田秀雄、吉井勇、久保田万太郎、岸田國士、菊池寛、山本有三中村吉蔵岡本綺堂の11人であった[42]

9月、東京放送局は声だけで演技を行う専門の俳優としてラジオドラマ研究生を公募[43]。100名あまりの応募者のうち12名の女性が選ばれ、11月にラジオドラマ『太っちょう』に声をあてる。声優の歴史に関する多くの資料では彼女たちが「日本の声優第1号」とみなされている。この当時は新聞では「ラヂオ役者」と呼称していた[注 2]

初期のラジオドラマには汐見洋や東山千栄子など、この前年に開場した築地小劇場の俳優が多く出演していた[44]1928年昭和3年)、小山内薫が急逝する。今後の方針から築地小劇場が分裂する。

1930年(昭和5年)、新興芸術派倶楽部が結成されている。芸術価値の自律性を擁護して、『文学』からは小林秀雄神西清、蝙蝠座からは今日出海など32名が参加した。また、蝙蝠座の院外団員には小林の他に菊池寛、岸田國士も参加していた[45]『ラジオ・ドラマ講座』(1952年)より

1931年(昭和6年)、久保田万太郎が日本放送協会の文芸課長に就任する。久保田は文芸路線を掲げて、夏目漱石や泉鏡花ルナールユーゴーなどの国内外の文学のラジオドラマ化を推進した。また、久保田の演劇界での人脈を活用して井上正夫、喜多村緑郎村瀬幸子、田村秋子、友田恭助などの新派や新劇で第一線の俳優を起用している[46]1938年(昭和13年)8月、退任。

文芸課職員であった小林徳二郎は後に「これは新劇の俳優が商業劇場に出演できなかった当時では、ラジオ放送だけにしか行い得ないことで、久保田の手腕によるものであった。いまでいえば久保田課長は芸術面ばかりでなく、政治力を兼ねた名プロデューサーであった」とその意義を述べている[47]。ラジオドラマの総放送回数は1938年(昭和13年)までの13年で750回を数えるまでに成長した。

この頃(おもに1930年代)に活躍していた者として舞台女優の飯島綾子が挙げられる[注 3]。彼女はラジオドラマのほかに日本舞踊家歌手(流行歌・歌謡曲・童謡オペレッタ)としても多彩な活動をしていた。

1932年(昭和7年)、日本初のアクセント専門の辞書である『国語発音アクセント辞典』が刊行されている。この頃、ラジオの普及率は10%前後であり、東京語に不慣れな全国の国語教員を主な対象として、話し言葉の統一、発音統一を目指して編纂された[49]。執筆者の一人であった言語学者神保格は、後述の調査委員会の委員や東京放送劇団の講師も担当している。

1933年(昭和8年)、文部省が国定教科書である小学国語読本において、劇教材を導入する[50]。国語科の編纂方針では、「国語教育と劇との関係は、非常に大切であり、是が効果もあらゆる方面から見て重要性を持つてゐる」との見解が反映された。また、義務教育の最終学年度では、シェイクスピア戯曲『リア王』が採用されている[51]

同年、坪内逍遥がシェイクスピア戯曲の改訳を行う(?1935年刊行)。更に新修に合わせて、翻訳者自身の手によるレコード吹き込みを実施している。『ハムレット』、『ヴェニスの商人』の朗読は、日本コロムビア(設立:1910年)から販売された[52]ブロードキャスティング・ハウス(BBC本社)

1934年(昭和9年)、NHKが放送用語並発音改善調査委員会(現:放送用語委員会)を設置する。イギリス英国放送協会(BBC)を範に取り、その調査方針については「共通用語は、現代の国語の大勢に順応して、大体、帝都の教養ある社会層において普通に用ひられる語彙・語法・発音・アクセント(イントネーションを含む)を基本とする」ことが定められている[53]

1935年(昭和10年)、NHKが全国向けの学校放送を開始する。

1941年(昭和16年)4月、国民学校令が施行されている。音声言語教育については、「話し方に於ては児童の自由なる発表より始め次第に之を醇正ならしめ併せて聴き方の練習を為すべし」と位置付けた[54]。6月、情報局が監督する日本移動演劇連盟が結成されている。

さらに同月、NHKが東京放送劇団を設立している。ラジオドラマ専門の俳優を養成する東京中央放送局専属劇団俳優養成所の研究生を公募した。1943年(昭和18年)1月、NHKが『日本語アクセント辞典』を編纂し、5月には、養成を終えた東京放送劇団の第1期生がデビューを果たした[55]。これが声優第2号とみなされ[56][注 4]、「声優」という言葉はこのころから使われたとする資料もある[58]

1948年(昭和23年)、劇団俳優座の創設者の一人である千田是也が戦前の路線の見直しの一環として、岸田國士ら「劇作派」の上演を開始する。千田は創作劇研究会の第1回試演において、「私どものような築地時代に翻訳劇ばかりで育つて来たものには、日常的なリアルな生活動作の中に心持ちを盛る芝居の勉強ができていず、大いに『物真似』の練習をしなければいけない」と表明した[59]

同年、劇団民藝の創設者の一人となる滝沢修が『俳優の創造』を発表する。滝沢は「『新劇調』といふのは」と題した項目において、自らの芸風をアマチュア芸から遠く出ない青臭さであると断じ、「輸入文化が伝統に根ざしていないと同じに、それを浅く漁って満足していた私たちの足が、本当に生活者として地についていなかったからである。」と表明した[60]

1949年(昭和24年)、文学座の創設者の一人である岩田豊雄(獅子文六)の計らいにより、加藤道夫芥川比呂志らの麦の会が合流する。岩田は座員の芸に安易なものが生まれかけ、若い世代もそれに倣う危険から揺り戻す必要が生じたと論じ、「どうも彼等は、日常的なセリフやシグサには長じているが、想像力を伴わなければならぬ演技は、ひどく不得手に見えた」との見解を示した[61]

1950年(昭和25年)、岸田國士が文学立体化運動を提唱し、雲の会を主宰する[62]。会員の三島由紀夫は、「自由劇場以後の日本の新劇は、大ざつぱにいふと、築地小劇場の飜訳劇中心主義から、左翼演劇への移りゆきとともに、技術的基礎づけに誤差を生じ、また政治的偏向を生んだ」と指摘した。そして、築地小劇場論争以来の混迷を正常化する最初の機会として、今回の文壇、劇壇の連帯の意義を説いている。中部日本放送放送劇団

1951年(昭和26年)、日本での民間放送が開始する。対日占領政策の転換から民放が解禁された結果、戦前からのNHK独占体制が崩れている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:422 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef