声優
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1903年(明治36年)、新派劇の父である川上音二郎が正劇運動と称して、『オセロ』、『ハムレット』、『ヴェニスの商人』などの翻案劇を上演する[20]。せりふとしぐさを主とするストレートプレイ新劇運動の萌芽となった。

1905年(明治38年)、中村翠娥、市川九女八、千歳米坡、若柳燕嬢らが女優大会を興行する。

1906年(明治39年)、坪内逍遥と島村抱月文芸協会を設立している[16]。同年、市川九女八、若柳燕嬢らが女優学校を設立。1908年(明治41年)、川上貞奴が帝国女優養成所(後:帝国劇場付属技芸学校)を、藤沢浅二郎が東京俳優養成所(後:東京俳優学校)を設立した。

1909年(明治42年)、小山内薫市川左團次自由劇場を設立している。同年、男女共学の文芸協会付属演劇研究所が設立されている。帝国劇場

1911年(明治44年)、帝国劇場が開場する。5月、文芸協会がシェイクスピア戯曲『ハムレット』を上演した。日本初の全幕上演となった本公演には夏目漱石も招待された[21]。11月には、イプセン戯曲『人形の家』が上演されている[22]。好評を博した新劇女優の松井須磨子は、文芸協会付属演劇研究所の1期生であった[23]。また、2期生からは新国劇の創設者となる澤田正二郎が輩出されている。

1916年(大正5年)、文部省が『口語法』(編纂:国語調査委員会)を公刊する。話し言葉の規範文法を提示した[24]

1923年(大正12年)、大正自由教育運動の只中、坪内逍遥が『児童教育と演劇』を、小原國芳が『学校劇論』を発表するが、この翌年、文部省が学校劇の禁止を通達した。築地小劇場

1924年(大正13年)、日本初の新劇の常設劇場である築地小劇場が開場する。創立同人に小山内薫、土方与志浅利鶴雄友田恭助ほか。研究生1期生(座員)に千田是也山本安英田村秋子丸山定夫、後に滝沢修杉村春子東山千栄子薄田研二らを輩出した[25]

小山内薫の方針は既成の劇文壇の反発を招き、築地小劇場論争が勃発する。『演劇新潮』の同人を中心に菊池寛久保田万太郎岸田國士などが参加した。この一件は、その後の日本文学史、演劇史のみならず、さらには映画史、放送史などにも影響を与えて行く事となる[26]。築地小劇場は――総ての劇場がそうであるように――演劇の為に存在する。
築地小劇場は演劇の為に存在する。そして、戯曲の為には存在しない。
戯曲は文学である。文学の為に存在する機関は新聞である、雑誌である、単行本である――印刷である。
文学の為に存在するものは劇場ではない。
戯曲――即ち文学――を味わうには、閑寂な書斎ほど好いところはない。 ? 小山内薫『築地小劇場は何の為に存在するか』[27]
レコード演芸

明治の末になるとハード面での近代化が進む。1910年(明治43年)、日本で最初のレコード会社が設立されている。1913年大正2年)、島村抱月と松井須磨子が芸術座を結成する[28]1914年(大正3年)の第3回公演では、抱月の再脚色においてトルストイの小説『復活』を上演した[29]。須磨子が歌唱した劇中歌『カチューシャの唄』はレコード販売もされ、近代日本初の流行歌となった[30]。同盤には歌唱だけでなく第三幕の科白の一節も収録された。そして同年10月、シェイクスピア戯曲『アントニーとクレオパトラ』が抱月の改作により上演され[31][32]、公演後には出演者が録音スタジオに集まり舞台の粋を収録している。これは科白のみのオーディオドラマであり、12月には「沙翁劇『クレオパトラ』」として発売された[33]

大正時代(1912年?1926年)には中村鴈治郎松本幸四郎市村羽左衛門成美団曾我廼家一座宝塚少女歌劇浅草オペラなども音源を残している[34][35]
映画(1930年代)

劇場アニメでは、1933年(昭和8年)には日本初のトーキーの短編アニメーション映画『力と女の世の中』が公開。アニメキャラクターに声をあてたのは、喜劇役者の古川ロッパをはじめとする映画俳優達だった。1942年(昭和17年)には中国の長編アニメーション映画『西遊記・鉄扇姫の巻(鉄扇公主)』が日本で公開され、活動弁士出身の徳川夢声山野一郎などが声をあてた。第二次世界大戦後に発足した東映動画により日本でもコンスタントにアニメ映画が製作されるようになると、映画俳優、コメディアン、放送劇団員が使われた。

洋画の吹き替えでは、1931年の米映画『再生の港』が初の日本語吹き替え作品だが、起用された在米邦人の広島訛りが不評で後が続かなかったという[36]
ラジオドラマ史愛宕山の東京放送局

1925年(大正14年)3月、NHKの前身である社団法人東京放送局が日本初のラジオ放送を開始する[37]

そのわずか1か月後に『映画劇せりふ』の番組内でサイレント映画『大地は微笑む』のセリフ劇が放送された。このときの声の出演は新派劇俳優の井上正夫、女優の栗島すみ子などであった。専門職としてではないが、実質的に彼らが「日本で最初の声優」である[38][注 1]

7月には舞台中継をスタジオで再現した『桐一葉』(出演:中村歌右衛門(5代目)など)が、さらに日本初の本格的なラジオドラマとして『大尉の娘』(出演:井上正夫、水谷八重子)が放送される。8月に小山内薫の演出、和田精音響効果で放送された『炭鉱の中』とする説もある[39]。出演者の一人であった山本安英は後に東京放送劇団の指導者を務めている。

8月、東京放送局にラジオドラマ研究会が設立される。長田幹彦、小山内薫、久保田万太郎、久米正雄長田秀雄吉井勇の6人を主要メンバーとした[40]。さらに聴取者の獲得の為に著名な文士に一編五百円で脚本を委嘱する。当時の五百円は一軒家が建つほどの金額であり[41]、2年間で「五百円ドラマ」に脚本を寄せた文士の顔ぶれは里見ク松居松翁、小山内薫、長田秀雄、吉井勇、久保田万太郎、岸田國士、菊池寛、山本有三中村吉蔵岡本綺堂の11人であった[42]

9月、東京放送局は声だけで演技を行う専門の俳優としてラジオドラマ研究生を公募[43]


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