声優
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言文一致・演劇改良運動

1877年明治10年)12月6日、アメリカトーマス・エジソンが世界初の録音・再生式の蓄音機を発明する[14]坪内逍遥

1880年代になると、日本では言文一致運動などソフト面での文明開化の運動が勃興する。1884年(明治17年)、速記本である『怪談牡丹燈籠』が刊行されている。三遊亭圓朝の演述を記録した[15]1885年(明治18年)、坪内逍遥が『小説神髄』を著し、日本の近現代文学史の本格的な始まりを告げた。

1886年(明治19年)には、歌舞伎近代化を志向した演劇改良会が結成されている。1887年(明治20年)、二葉亭四迷が『浮雲』を著す。日本の近代的な小説の嚆矢となった。1888年(明治21年)、角藤定憲らが大日本壮士改良演劇会を結成する。1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場する。

坪内逍遥はシェイクスピア戯曲翻訳や歌舞伎演目『桐一葉』の創作、森?外との没理想論争など明治期の文芸演劇界で幅広く活躍した[16]。演劇改良運動に取り組んでいた市川團十郎との初対面では、『ハムレット』を引き合いに出して、西洋演劇におけるエロキューションの効能を紹介している。ハムレットのやうな怖しく葛藤つた胸の惱みを言ひあらはす白は、言ひかたによつては非常に趣味も深く、感動も?からうと思ふ。實際は口へ出して言はぬ事を獨白で言はせ、そして自然らしく見せる所に演劇の本領がある。劇は必ずしも寫實を要しない。尤も、只素讀をするやうに一本調子で言つてしまへば、何の含蓄もなからうが、一語々々の深い意味を十分に味はせるやうに、且つ如何にも自然らしく言ひ廻すことが出來たなら、そこにこそ眞に微妙な演技があるので、その複雑な、精緻な味ひは迚も思入れだけでは現せるものではあるまい。外國でエロキューションに重きを置くのは是れが爲である。 ? 坪内逍遥『九世市川團十カ、五世菊五カ』[17]

1891年(明治24年)、伊井蓉峰依田學海の後援を得て、男女合同改良演劇・済美館を興す。寛永6年(1629年)に女性芸能が禁止されて以来、262年ぶりに男女共演が実現し、千歳米坡が女優として公演した。

同年、坪内逍遥が東京専門学校(現:早稲田大学)の文学部において、朗読の研究会を開催する。脚本には饗庭篁村の新作院本が採用された。朗読法を巡って森?外と逍遥の間で論争が起こる[18]川上貞奴川上音二郎

1900年(明治33年)、欧米を洋行中であった川上音二郎一座は、訪問先のパリ万国博覧会で日本人最古となる録音盤の収録を行う。書生芝居の幕間に演じられた『オッペケペー節』をはじめとする多種多様な演目を録音した[19]

1902年(明治35年)、文部省国語国字問題の解決を目的として、国語調査委員会を設置する。小山内薫

1903年(明治36年)、新派劇の父である川上音二郎が正劇運動と称して、『オセロ』、『ハムレット』、『ヴェニスの商人』などの翻案劇を上演する[20]。せりふとしぐさを主とするストレートプレイ新劇運動の萌芽となった。

1905年(明治38年)、中村翠娥、市川九女八、千歳米坡、若柳燕嬢らが女優大会を興行する。

1906年(明治39年)、坪内逍遥と島村抱月文芸協会を設立している[16]。同年、市川九女八、若柳燕嬢らが女優学校を設立。1908年(明治41年)、川上貞奴が帝国女優養成所(後:帝国劇場付属技芸学校)を、藤沢浅二郎が東京俳優養成所(後:東京俳優学校)を設立した。

1909年(明治42年)、小山内薫市川左團次自由劇場を設立している。同年、男女共学の文芸協会付属演劇研究所が設立されている。帝国劇場

1911年(明治44年)、帝国劇場が開場する。5月、文芸協会がシェイクスピア戯曲『ハムレット』を上演した。日本初の全幕上演となった本公演には夏目漱石も招待された[21]。11月には、イプセン戯曲『人形の家』が上演されている[22]。好評を博した新劇女優の松井須磨子は、文芸協会付属演劇研究所の1期生であった[23]。また、2期生からは新国劇の創設者となる澤田正二郎が輩出されている。

1916年(大正5年)、文部省が『口語法』(編纂:国語調査委員会)を公刊する。話し言葉の規範文法を提示した[24]

1923年(大正12年)、大正自由教育運動の只中、坪内逍遥が『児童教育と演劇』を、小原國芳が『学校劇論』を発表するが、この翌年、文部省が学校劇の禁止を通達した。築地小劇場

1924年(大正13年)、日本初の新劇の常設劇場である築地小劇場が開場する。創立同人に小山内薫、土方与志浅利鶴雄友田恭助ほか。研究生1期生(座員)に千田是也山本安英田村秋子丸山定夫、後に滝沢修杉村春子東山千栄子薄田研二らを輩出した[25]

小山内薫の方針は既成の劇文壇の反発を招き、築地小劇場論争が勃発する。『演劇新潮』の同人を中心に菊池寛久保田万太郎岸田國士などが参加した。この一件は、その後の日本文学史、演劇史のみならず、さらには映画史、放送史などにも影響を与えて行く事となる[26]。築地小劇場は――総ての劇場がそうであるように――演劇の為に存在する。
築地小劇場は演劇の為に存在する。そして、戯曲の為には存在しない。
戯曲は文学である。文学の為に存在する機関は新聞である、雑誌である、単行本である――印刷である。
文学の為に存在するものは劇場ではない。
戯曲――即ち文学――を味わうには、閑寂な書斎ほど好いところはない。 ? 小山内薫『築地小劇場は何の為に存在するか』[27]
レコード演芸

明治の末になるとハード面での近代化が進む。1910年(明治43年)、日本で最初のレコード会社が設立されている。1913年大正2年)、島村抱月と松井須磨子が芸術座を結成する[28]1914年(大正3年)の第3回公演では、抱月の再脚色においてトルストイの小説『復活』を上演した[29]。須磨子が歌唱した劇中歌『カチューシャの唄』はレコード販売もされ、近代日本初の流行歌となった[30]


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