壬申の乱
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また、蘇我氏同族の来目塩籠は「河内国司守」として近江朝廷軍を率いていたものの、不破の大海人皇子軍に投降しようとして殺されている[1]

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。

近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。大海人皇子方と近江方を区別するため「金」という合言葉を用いた[2]村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、7月7日8月8日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して箸墓の戦いでの勝利を経て進撃を続けた。7月22日8月20日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日8月21日)に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。美濃での戦いの前に、高市郡に進軍の際、「高市社事代主身狭社に居る生霊神」が神懸り神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と言いそうすれば大海人皇子を護ると神託をなした[2]。翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。
乱の原因

壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。
皇位継承紛争

天智天皇は天智天皇として即位する前、中大兄皇子であったときに中臣鎌足らと謀り、乙巳の変といわれるクーデターを起こし、母である皇極天皇からの譲位を辞して軽皇子を推薦するが、その軽皇子が孝徳天皇として即位しその皇太子となるも、天皇よりも実権を握り続け、孝徳天皇を難波宮に残したまま皇族や臣下の者を引き連れ倭京に戻り、孝徳天皇は失意のまま崩御、その皇子である有間皇子も謀反の罪で処刑する。以上のように、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまった[1]。また天智天皇として即位したあとも、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指すなど、かなり強引な手法で改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子の不満を高めていった。当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位も重視されており、長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。これらを背景として、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から乱の発生へつながっていったとみられる。
白村江の敗戦

天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。
額田王をめぐる不和

天智天皇と大海人皇子の額田王(女性)をめぐる不和関係に原因を求める説もある。江戸時代伴信友は、『万葉集』に収録されている額田王の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推察した。
異説・俗説
房総における伝説小川御所の跡と言われる白山神社

千葉県には、大友皇子が壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びたとする伝説があり、それに関連する史跡が数多く存在する。

中心となるのは、君津市俵田の白山神社である。皇子はこの地に落ち延び、「小川御所」を営んで暮らしていたが、大海人皇子が差し向けた追討軍による急襲を受けて死亡したとされる。周辺の同市戸崎には、皇子に付き従った7人の侍を葬った「七人士の墓」が存在するほか、皇子とともに房総に下ったとされる蘇我赤兄を祀った飯綱神社が同市末吉にある[3]

また、残された后の十市皇女は山を分け入って大多喜町筒森の「限りの山」にたどりついたものの、その地で難産(流産)の末亡くなったとされ、地元の里人がこれを哀れに思い、大友皇子と十市皇女の霊を手厚く弔い社を建てたのが筒森神社である。
九州主戦場説

九州王朝説では、壬申の乱は九州が主な戦場であるとする説もある[4]。それによると、倭京は太宰府、大津京は肥後大津のことであり、難波は筑後平野に在ったと考えられるという。
壬申の乱が描かれた創作作品「壬申の乱を題材とした作品」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 国内の一部解説書等には、日付をグレゴリオ暦で換算表記するものもある。その場合、7世紀の日付はユリウス暦より3日ずれることに注意(例:内乱開始は7月27日)

出典^ a b c d e f 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社 2015年)
^ a b日本書紀』、巻第20
^ 宮間純一『天皇陵と近代―地域の中の大友皇子伝説―』平凡社、2018年
^ 大矢野栄次『壬申の乱の舞台を歩く』梓書院、 2012年12月

参考文献

北山茂夫『萬葉集とその世紀』新潮社、1985年

倉本一宏『戦争の日本史2 壬申の乱』吉川弘文館、2007年 ISBN 978-4642063128

倉本一宏『歴史の旅 壬申の乱を歩く』吉川弘文館、2007年 ISBN 978-4642079785

倉本一宏『持統女帝と皇位継承』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4642056663

関連項目

天武天皇

弘文天皇

大友皇子即位説

天智天皇

路益人

近江宮

吉野

大伴友国

大伴榎本大国

佐伯大目

十津川郷士

ふなんこぐい

栗隈王(筑紫帥)

ホルスセト


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