壬午軍乱
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注釈^ 小島毅は、清・朝鮮の関係について、清を「朝鮮にとって親分」と形容している。小島(2011)p.44
^ 安驥泳と李載先はこの年のうちに刑死しており、大院君派の勢力は大きく後退した。糟谷(2000)p.231
^ 著者のダデシュカリアニはロシア帝国アムール州総督官房付で公爵。「朝鮮の現況」の初出は『アジア地理・地勢・統計資料集』(第22分冊、サンクトペテルブルク1886年刊)
^ 陸軍省 公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月?十一月 "故工兵中尉堀本礼造外二名并朝鮮国ニテ戦死巡査及公使館雇ノ者等靖国神社ヘ合祀ノ件"、 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A01100233700. 「同省朝鮮国日本公使館護衛隊ハ鎮守ニ等シキ勤労アルヲ以テ鎮戍ノ軍隊ニ准シ従軍年ニ加算セント請フ之ヲ允ス」
^ 日本政府の法律顧問だったギュスターヴ・エミール・ボアソナードは、日本は朝鮮を独立国として認めたのだから日朝間交渉に清国を介入させるべきではないが、清国はみずからの論理で介入すること必至であるから、清国政府が照会する前に日本政府は朝鮮政府に要求を申し入れておく必要があると助言した。海野(1995)p.53
^ 朝鮮側が日本案にあった「賠償」という文言に強く反発したため「補填」の文言に改めた(日本政府が決算した本事件の出兵経費は81万2620円43銭であった)。補填金50万円は、のちに朝鮮財政の困窮を理由に10万円×5年払いを5万円×10年払いとしたが完納されず、1884年に日本側が残額を寄贈するという形式をとって帳消しとなった。結局、領収額は10万円(寄贈額は40万円)ということになった。
^ 民間人の内地旅行・通商権は当初開港場より20キロメートル以内であったが、2年後の1884年には40キロメートル以内に拡大された。糟谷(2000)p.232
^ 批准書の交換は1882年10月31日、軍乱の謝罪特使として来日していた朝鮮国全権大使兼朴泳孝、副大臣金晩植と井上馨外務卿のあいだで取り交わされた。海野(1995)p.57
^ メレンドルフは、朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人となった。海野(1995)p.58
^ 高宗が提出した「朝鮮国王李?陳情表」の内容は以下の通り。

皇帝陛下の臣下であります私の心は震えています。実父は悪くありません。罪はみな臣であります私にあります。天下に善政をされる人倫の聖なる極みの皇帝陛下に伏して願います。実父を許してくださるなら、小国の私たちは感激して皇恩を永遠に称えます。
^ 軍事費の伸びは1882年-1883年が大きかったが、軍人の数は1884年-1885年の伸びが大きかった。後者は、甲申政変における日本の不首尾が契機となっている。佐々木(1992)p.303
^ ただし、全体的にみれば民権派の新聞は、この時点では比較的冷静で、朝鮮の攘夷主義者に対しても彼らは愛国者だから必ずや清国に対して抵抗するだろうと期待したり、清国との連携を深めてロシアに対抗すべきだという見解も多くみられた。牧原(2008)p.288

出典^ a b c d e f g 呉(2000)p.227
^ 林『近世朝鮮史』(1900)
^ a b 大濱(1989)p.135
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 海野(1995)pp.56-61
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak 呉(2000)pp.56-66
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 糟谷(2000)pp.231-232
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 海野(1995)pp.50-56


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