士燮_(交阯太守)
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中世大越の史家の中には、士燮をベトナムに初めて漢字を導入した者と比定する者もいるが、士燮の時代以前に漢字が既に使用されていたという意見が多い[16]

交趾に移住した袁徽は荀ケに宛てた手紙の中で、士燮の高い学識と統治手腕を評価し、新代から後漢初期にかけて河西を支配していた竇融に勝る人物と称賛した[18]南越国の建国者である趙佗は、中央の衰退に乗じて独立政権を樹立し、学識を有する点で士燮と共通していたため、しばしば比較の対象に挙げられている[19]。『三国志』の編者である陳寿は、士燮を趙佗以上の人物だと評価した[8]4世紀葛洪が著した『神仙伝』には、一度死んだ士燮が仙人の董奉(中国語版)から与えられた丸薬によって、蘇生する逸話が収録されている。14世紀陳朝大越で編纂された『越甸幽霊集(中国語版)』には、士燮が没してからおよそ160年余り後に代の交州に侵攻してきた林邑チャンパ)の兵が彼の墓を暴いた時、遺体は生前と変わらない姿をしていたという伝説が収められており、この伝説は『神仙伝』の逸話が下敷きになったと考えられている[20]

後世のベトナムの人々からは士王(シー・ヴォン、ベトナム語:S? V??ng / 士王)と呼ばれて敬愛され[16][21]13世紀の陳朝の時代には仁宗によって「嘉応善感大王」、英宗によって興隆21年(1313年)に「嘉応善感霊武大王」に追封された[22]。士燮が没した後に編纂された『三国志』には、士燮が生前に王と称されていた記述が存在していないことから、陳寿が士燮を南越王であった趙佗と比較したため、後世に「士王」の称号が生まれたと考えられている[23]。『大越史記全書』の編者である呉士連らの史家により、18世紀まで士燮はベトナムの正統な王と見なされていた[2]後黎朝期の史官である呉時仕(中国語版)は、士燮の官職と事績を北属期の他の漢人統治者と比較して、従前の大越で受け入れられていた士燮の伝説的な事績を否定し、彼を「王」として特別視することなく『大越史記全書』から「士王紀」を削除した[24][25]。だが、保大20年(1945年)のベトナム八月革命まで使用されていた漢文教育用の教科書には、ベトナムの教化者である士燮像が記載されていたため、「士王」のイメージは20世紀に至るまで民衆の間に残り続けた[26]。しかしその後、クオック・グーの普及と漢文教育の衰退に伴ってシー・ニエップ(士燮)の名前は教科書から消え、2005年に改訂されたベトナムの歴史教科書にはその政策についての記述は存在していない[27]
一族士氏の家系図

三国志』士燮伝によると、士氏は元々、魯国?陽県(現・山東省泰安市付近)に本籍を置いていた[28]代の混乱を避けて交州の蒼梧郡広信県(現・広西チワン族自治区梧州市蒼梧県[1])に定着し、本籍を移した[28]。蒼梧土着の豪族として力を蓄え、士燮の父の士賜は交州に本籍を置く者として初めて、日南太守に任じられた[3]

子は士?・士祗・士徽・士幹・士頌らがいる。士燮の死後、士?以外で名の残る彼ら兄弟は士徽を中心に、孫権が目論む交州の直接支配に反発。その後、孫権が派遣した呂岱に降伏するがもろともに処刑され、士氏による交州支配は崩壊する[29]。孫権の下で人質となっていた士?は弟らの処刑後、官位を剥奪されて庶人となった。
配下

桓治

桓発

桓鄰


甘醴

張旻

程秉


脚注
注釈^ 『大越史記全書』外紀巻之三では丁卯元年(中平4年(184年))とするが、建安初年(196年)とする書籍[5]もある。

出典^ a b c d 狩野 1960, p. 159
^ a b c d 宇野 1999, pp. 155?156
^ a b c d e f 後藤 1975, p. 152
^ a b c 桜井 2001, pp. 121?124
^ 後藤 1975, pp. 153
^ 後藤 1975, pp. 153?154
^ a b 後藤 1975, p. 154
^ a b c 後藤 1975, pp. 157
^ 後藤 1975, p. 158
^ a b c 川手 2013, p. 141
^ 川手 2013, pp. 155
^ 桜井 1999, pp. 121?124
^ 後藤 1975, pp. 166?167


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