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制度上は兵から下士官、准士官、士官と順次進級できる可能性がある陸軍と異なり、学歴至上主義の海軍では士官と学歴が無い下士官兵では全く別の階層だった。海軍士官と言っても職種と任用前の経歴により大別すると、正規の養成教育を受けた「士官」、商船学校出身や予備学生出身の「予備士官」、それと下士官兵から累進した「特務士官」に分けられていた。
その内、「士官」は戦闘要員を主体とする兵科士官(「将校」)と戦闘要員を支援する技術士官(「将校相当官」)に更に分けられた。兵科士官は海軍兵学校、海軍機関学校で3年間教育を受けたあと、海軍少尉候補生に命ぜられ、練習艦隊の訓練、つづいて艦隊での実地勤務を経ると海軍少尉に任用されて、正式な兵科士官となって配属される。少尉、中尉の間は広く知識と経験を得させるため、甲板士官、砲術士、通信士など一通り何でもやらされるが、おおむね大尉に進級すると、各種術科学校(砲術、水雷、通信、航海、潜水、飛行)の高等科学生に入校して、特性に応じた教育を平時の場合は約1年間(太平洋戦争中は大幅に短縮)受けた。術科学校の高等科学生を卒業すると改めて勤務する軍艦において、教育された各科の科長、つまり砲術長、水雷長、通信長、航海長、内務(1943年12月に新設。それまでの運用科、工作科と機関科の電気部門、補助機械部門を統合)長についた[12]。技術科士官は造船科、造機科(艦船のエンジン)、造兵科(兵器)、水路科の4科の士官を総括していう。大学令による大学(主として東京帝国大学)の工学部、理学部在学中の学生から試験で採用、海軍学生または海軍委託学生として毎月一定の手当てを支給。卒業と同時に造船中尉、造兵中尉に任官する。1942年(昭和17年)11月、前述の4科は技術科に一本化、官職名は海軍技術中尉になった。
このほか、主計科・軍医科・薬剤科・歯科医科・法務科・看護科・軍楽科も「将校」でなく「将校相当官」である(時期により異なる)。
兵科士官のみが「将校」とし、その他の科に属する士官は「将校相当官」とし、指揮権はなく、昇進も中将どまりである。なお、1904年(明治37年)以降は、東京高等商船学校や神戸高等商船学校の生徒について入校即日に海軍予備生徒(海軍予備員)に任じ、卒業後は予備少尉あるいは予備機関少尉に任官させた。高等商船学校生徒は、在校中、海軍砲術学校に6ヶ月間入校し初級予備士官としての教育を受けた。予備士官は、制度上は最終的に大佐まで昇進できるようになっていた。これらは海軍の兵科・機関科の関係の変遷や階級呼称の変遷に伴い、それに準じて制度が改正された。
海軍士官の階級・兵科将校(兵科将校という表現は厳密には1920年-1942年(大正9年-昭和17年)のみ用いられている)の場合:大将-中将-少将-大佐-中佐-少佐-大尉-中尉-少尉-少尉候補生
昭和期の海軍においては、習慣的な呼称として大佐を“だいさ”、大尉を“だいい”と呼ぶことがあった[注 1]。ただし、大将は陸軍と同じ“たいしょう”であった。大将のみ“たいしょう”と読む理由は、司令官たる大佐(本来は少将ポストだが今後昇任予定、もしくは特例による大佐)が座乗する旗艦については少将旗ではなく代将旗(だいしょうき)を掲揚するので、これと大将とを混同しないようにするためである。