壇一雄
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1936年(昭和11年)、「夕張胡亭塾景観」が第2回芥川賞候補となる。『文藝春秋』に出世作「花筐」を発表。1937年(昭和12年)、日中戦争の勃発により召集を受け久留米独立山砲兵第3連隊に入隊、大陸へ出征。1940年(昭和15年)に軍務終了なるも帰国せず、そのまま満州を旅する。1941年(昭和16年)、母の勧めで福岡の開業医の娘・高橋律子と婚約し、翌年に結婚。1943年(昭和18年)に長男太郎が誕生する。1944年(昭和19年)には陸軍報道班員として再び大陸へ渡る。この間、律子は腸結核に罹患。翌年に帰国した一雄は献身的な看病を行ったが、律子は1946年(昭和21年)に死去。

同年、児童文学者与田準一の紹介で福岡県山門郡瀬高町(現:みやま市)の酒造家の娘山田ヨソ子と再婚し、上京後は石神井に居を構える。1948年(昭和23年)に太宰が自殺した後は坂口安吾とも交流をもつ。林忠彦撮影 (昭和24年)1949年

1950年(昭和25年)、先妻である律子を描いた連作「リツ子・その愛」、「リツ子・その死」にて文壇に復帰。1951年(昭和26年)「長恨歌」「真説石川五右衛門」の2作にて直木賞を受賞[4]

檀は舞台女優入江杏子と愛人関係にあった。入江は石神井の自宅にしばしば出入りしていたが、1956年(昭和31年)、青森県東津軽郡蟹田町(現:外ヶ浜町)の太宰治文学碑除幕式に同行した際に男女の関係となり、そのまま山の上ホテル同棲をはじめた。入江杏子との生活そして破局を描いたのが代表作『火宅の人』である。1961年(昭和36年)、「火宅の人」の最初の一編である「微笑」が文芸誌『新潮』に発表され、その後連作として各誌に発表された。しかし以後執筆は遅々として進まず一旦中断した。

1968年1月より1974年3月(20号)まで季刊文芸誌「ポリタイア」を編集、発行した。この実質的なスポンサーは、ともに詩作の経験がある世耕政隆参議院議員近畿大学総長)と麻生良方(衆議院議員)であった。

1970年(昭和45年)11月より1972年(昭和47年)2月までポルトガルのサンタ・クルス(リスボン近郊のTorres Vedrasの中にある漁村)に滞在。1974年(昭和49年)、福岡市西区能古島に自宅を購入し転居、月壺洞(げっこどう)と名づけた。1975年(昭和50年)に檀は悪性肺ガンのため九州大学医学部付属病院に入院。『火宅の人』を再開し、病床で最終章「キリギリス」を、口述筆記にて完成させ遺作となった。1976年(昭和51年)1月2日に死去した。享年63。死後、『火宅の人』で昭和51年度読売文学賞を追贈された。戒名は能嶽院殿檀林玄遊居士[5]

1977年(昭和52年)、終の住家となった能古島に文学碑が建てられ、その文面には檀の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には檀を偲ぶ「花逢忌」がこの碑の前で行われている。また、檀の墓は故郷・柳川の福厳寺に建てられている。

1991年(平成3年)から1992年(平成4年)に、『檀一雄全集』(全8巻別巻、沖積舎、実質は作品集)が刊行された。

ポルトガルのサンタ・クルース(英語版)にあるモニュメント「ポルトガル檀一雄文学碑」

碑銘

人物中年期の檀

画像外部リンク
娘女優の檀ふみとのツーショット


太宰治とは盟友と言っていい程の関係であり、特に出会った1933年から召集で交友が途絶える1937年までの間は連日のように連れ立っての放蕩三昧であった[6]。お互い酔いつぶれたあげく太宰に自殺を持ちかけられ、共にガスを使って実行しかけたこともある[7]。また秋沢三郎からは酒席で「太宰の腰巾着」と揶揄され、激怒した檀はその場で秋沢を殴った(ただし秋沢とはその後も親交が続いた)。檀は当初より太宰の才能を高く評価し、2度目に会った時には直接「君は、天才ですよ」と告げた[8]。太宰の没後『小説 太宰治』(新版・岩波現代文庫)を執筆している。

檀が9歳の時に実母が出奔し、また父が料理を作れなかったこと、そして小学校に上がっていない妹が3人いたことからやむなく料理を始めた経緯があるが[9]、結果檀は文壇屈指の料理人として名を通した。著書にも『檀流クッキング』、『美味放浪記』、『わが百味真髄』があり、その造詣の深さが窺える(新版 各中公文庫BIBLIO)。また、檀は旅先でも地元の食材を買い求め、自宅に来る編集者や友人らに自ら腕をふるって料理を振舞っていたという。長男・檀太郎とその妻・晴子が受け継いで、著書を複数刊行している。

檀自身、転勤族だった父の影響の為か「帰巣本能に乏しい」と語っており、世界中への放浪を繰り返した生涯であった。しかし、その放浪によって自らの作品や前述の料理の知識を得ていたとも言える。『漂蕩の自由』(中公文庫)に詳しい。

同郷の火野葦平とも親交があり、その火野の紹介で会ったのが柳川の旧伯爵立花家の16代当主立花和雄である。檀も柳川育ちであったためにたちまち意気投合し、柳川滞在時には立花の経営する料亭旅館『柳川御花』の離れに宿泊するのが常であった。また滞在時には『火宅の人』も執筆している。

NHK特集 命もえつきる時 作家檀一雄の最期』[10](1987年4月6日夜放送、語り草野大悟)では、入院先で口述筆記により「火宅の人」完成に向け、苦闘する姿が録音テープと共に紹介された。

作家の坂口安吾とその妻・三千代を自宅に居候させたことがある。そのとき坂口は「カレーライス百人前事件」を起した。詳しくは坂口安吾#巷談師の自覚と珍騒動を参照。

主な作品

『夕張胡亭塾景観』(1935年、第2回
芥川賞候補)

『花筐』(はながたみ)(1937年、処女作品集)

『天明』(1944年、第4回野間文芸奨励賞)

『リツ子・その愛』(1950年)

『リツ子・その死』(1950年)

『真説石川五右衛門』(1951年、第24回直木賞)

『長恨歌』(1951年、第24回直木賞)

『ペンギン記』(1952年)

『誕生』(1955年)

『夕日と拳銃』(1956年、同年映画化)

火宅の人』(1961年 - 1975年、第27回読売文学賞小説賞、第8回日本文学大賞

『檀流クッキング』(1970年)、続編刊

著書

『花筐』赤塚書房 1937年

『虚空象嵌』赤塚書房 1939年

『小説太宰治』
六興出版社 1949年 のち 審美社

『リツ子・その愛』、『リツ子・その死』作品社 1950年 のち 新潮文庫角川文庫旺文社文庫

『長恨歌』文藝春秋新社 1951

『真説石川五右衛門』(上下)新潮社 1951年 - 1952年 のち 角川文庫、春陽文庫講談社文庫徳間文庫

『狼煙』春陽文庫 1951年

『聖マリヤの鐘』偕成社 1954年

『ペンギン記』現代社 1954年

『虹を吹く少年』同和春秋社(昭和少年少女文学選集)1954年

『男戦女国』東方社 1955年

木曽義仲筑摩書房 1955年

『戦国名将伝』河出新書 1955年 のち 徳間文庫

『青い稲妻』東方新書 1955年

『夕日と拳銃』(上下)。新潮社 1955年 - 1956年、新版1986年 のち 河出文庫、角川文庫

『地上 第一部』新潮社 1956年

『天下無法坊行状記』同光社 1956年

『新カグヤ姫』近代生活社 1956年

『海の竜巻』講談社ロマン・ブックス 1956年

『青春放浪』筑摩書房 1956年 のち ちくま文庫

『真書太閤記 藤吉郎篇』河出新書 1956年

『オレは馬賊だ』同光社 1956年

『最後の仇討』同光社 1956年

『照る陽の庭』現代社 1956年

『女の山彦』角川小説新書 1956年

『風と剣』雲井書店 1957年

『少年猿飛佐助東京創元社 1957年

『光る道』新潮社 1957年

『かもめ夫人』現代社 1958年

『白い弾丸』光文社 1958年

『風の中の青春』筑摩書房 1958年

『暖かい町』角川書店 1958年

『風と雲雀と丘』新潮社 1958年

『新説 国定忠治』筑摩書房 1961年 のち 各(上下)、河出文庫、徳間文庫


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