墨田区
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人口


墨田区と全国の年齢別人口分布(2005年)墨田区の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 墨田区
■緑色 ― 日本全国■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
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現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。

墨田区(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より



昼夜間人口

2005年に夜間人口(居住者)は231,092人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は262,514人で昼は夜の1.136倍の人口になる[8]

世帯数:117,324世帯(2006年10月1日)

外国人登録者数:8,314人(2006年10月1日)

地理

東京都の東部の区であり、西の区境は隅田川で、対岸は北から足立区台東区中央区である。東の区境は荒川および旧中川で、江戸川区と向かい合う。荒川と隅田川をつなぐ荒川放水路の北は足立区である。このように河川に囲まれたエリアで水の郷百選に選ばれており、区東部は海抜ゼロメートル地帯となっている。このため墨田区はハザードマップで、豪雨や河川氾濫のほか、東京湾高潮を含む水害への警戒を呼び掛けている[9]
歴史
近世以前

墨田区が成立するまでは、区の北部(旧・向島区)と南部(旧・本所区)では、歴史に大きな違いが見られる。北部では、平安時代ごろには陸地化が進み、中世には荘園制度のもとでは下総国葛西御厨の一角にあり、葛西氏知行地農村地帯として発展を遂げていた。南部では牛島が700年代から放牧地とされていた他はおおむね湿地帯であり、が住むには極めて向かない土地であった。こちらは北部とは異なり、中世では武蔵国江戸氏一族の知行地であった。
近世

江戸中心部が1657年明暦3年)の振袖火事によって焼け野原になったため、災害対策の一環として武家屋敷が当区南部へと移動することとなった。同時に、竪川大横川をはじめとする人工河川(運河)の掘削や南北割下水(わりげすい、現在の北斎通り近辺にあった)、碁盤目状の街路の整備が行われた。元禄十六年(1703年)の赤穂事件の討ち入りされた吉良上野介の屋敷があった。
近・現代

1878年明治11年)に北部は東京府南葛飾郡に編入され、南部は東京15区の一つ・本所区として成立するようになる。また、工業化の波が押し寄せることとなり、北部も南部も開発が進んでいくようになった。1894年(明治27年)には、重要な交通手段である総武本線が開業した。このように発展してきたが、1923年大正12年)の関東大震災により、区域の大半が焼失することとなった。特に、元陸軍被服廠跡地(現在の横網町公園など)では、多くの人が避難をしたものの、猛火に遇い、4万人から5万人といわれる多大な焼死者を出した。

やがて、それらによる被害も復興していくようになり、1932年(昭和7年)には、北部に向島区が誕生。1935年昭和10年)の国勢調査人口は、現在の墨田区域(当時の本所区と向島区の合計)で464,892人であり、隣の台東区区域(当時の浅草区下谷区の合計)464,217人と共に、東京で最も人口が集中しているエリアであった。

しかし、第二次世界大戦(特に1945年東京大空襲)により、またもや区内全土は大きく焼失した。1947年(昭和22年)に本所区と向島区が合併して現在の墨田区が誕生した。1963年(昭和38年)までは、町の復興および発展とともに人口が増加して昭和の下町の代表的な存在の街となった[10]。その後は頭打ちとなり減少し始めた。また、町工場も郊外や日本国外への移転などに伴い減少していくこととなった。

1981年(昭和56年)4月1日防災行政無線の運用を開始した。

近年では、これら工場跡地にマンションを建てるなどの開発が進められ、特に2000年(平成12年)以降は人口が大きく増加(回復)している。

2016年平成28年)8月24日より防災行政無線の放送などが変更された。
町名

墨田区では全区において住居表示の実施が完了している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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