塘沽協定
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山海関事件について当時のロンドン・タイムズは、日本は最終的に熱河省から無法者を追い払う意図を決して隠したことはないが、この事件を中国側の挑戦によるものとする日本側の主張は現場近くに日本の軍隊がいなかったという事実と戦闘が始まった時には第二師団が釜山から日本に向けて出航していた事実によって裏付けられるとし[22]、「中国側が西欧列強の支援を得るためのものではないか」と論じた[1]。同じく英国のデイリー・メール紙は事件は主に張学良によるもので彼は国際連盟が日本に対して実力を行使することを期待したのではないかと論じた[23]。中国側は日本軍による山海関占拠の合法性を認めなかった[24]が、ロンドン・タイムズは「1901年に調印された北京議定書に基いて占拠している日本軍に対して中国軍が攻撃的態度を取ったことは中国軍の責任であり、日本側が侵略されたとして防御するのは当然の権利」と説明している[1]

フランスでは、フランス社会党党首レオン・ブルムが同党の機関誌において反日的な論説を行い、日本との即時断交を主張したが、4日の夕刊各紙の報道はいずれも日本を弁護した。『タン』紙は「日本軍の北平への進出説があるが軽々しく信じられぬ」とし、『リベルテ』紙は「山海関事件は中国側が悪いに相違ない、国際連盟は事務局の力でごまかすだろう」と報じた[25]

一方で、この事件の原因を支那駐屯軍山海関守備隊隊長の落合甚九郎の謀略とする研究もある[26]
国民党による抗日の顛末

1932年12月に南京で開催された国民党中央委員全体会議では、中国北部における軍事行動・東北義勇軍に対する援助・日貨排斥の3点からなる積極的抗日案が提出され、決議されたことが確実視されていた[27]。東北義勇軍は熱河作戦までの1年にわたり熱河地方を蹂躙した張学良麾下の10万余の勢力であった[28]。実際に熱河省内における治安攪乱の動きが顕著となり、張学良麾下の正規軍も越境し、熱河省に侵入した[27]日満議定書によれば、満洲国の領域内の治安維持は日本・満洲両国が共同して行うものとしており、日本は熱河問題を条約上の義務としても認識し、大きな関心を寄せていた[27]

中国国内では山海関事件以後塘沽協定締結までの熱河省喪失の過程で、民衆の抗日意識が大きく高まり、日本軍の矢面に立った宋哲元の第29軍への支援のほか、2月16日北平において東北熱河後援協会が組織され、宋子文張学良などが結成式に列席し、多額の義援金が送られた[29]が、?介石は共産勢力の脅威に晒されるようになると、抗日を口にすることを禁じるようになった(後述の共産軍の脅威を参照)。『中国近現代論争年表』によれば3月6日「抗日を多言する者は殺して赦すなかれ」の命令を出している[30]。また『東京朝日新聞』も?介石が「共産軍討伐完了前は絶対に抗日を言うことは許されず、違反すれば最も重い罰を受ける」と述べたことを伝えている[31]
熱河作戦
日本側の方針

内田尚孝によれば、日本側は1932年当時、熱河省を経済的利益の薄い地域と認識していた[32]が、『第八師団熱河経略経過概況』には1932年6月23日に熱河地方にアヘンを買い付けるために満洲国国務院財政部から天野竹蔵を招いたとの記述があり、内田はこのころには経済的利益も見出しつつあったと見ている。1933年2月7日第8師団参謀部がまとめた『熱河事情の一端』では、熱河省の産業の筆頭にアヘンを挙げている[33]

日本が熱河作戦を実施したのは、参謀本部の『熱河省兵要地誌』に示される満洲国に対する緩衝地としての「消極的利益」に加えて、「平津地方領有ノ為……作戦ヲ指導スル場合本地方ヨリ一部ノ作戦ヲ行フノ有利ナルハ当然ニシテ……」という、平津(北京(北平)天津)を含む華北侵略の橋頭堡としての「積極的利益」を見出していたためとしている[34]

1933年1月11日に陸軍当局がおこなった発表では、「1932年夏には20万以上の勢力を持っていた兵匪義勇軍等も熱河省を除き全満洲にわたり集団的反満軍のほとんどが一掃され、全満洲の治安回復が成った」とされた[35]。同日、陸軍は熱河問題に関しても発表を行った[36]。それによると
熱河省は旧東北四省の一つとして他の三省とは不可分の関係にある。

満洲国独立宣言の際に熱河は満洲国の一部として宣布している。

リットン調査委員の質問に対し満洲国当局は万里長城が国境である旨を明らかにしている。

熱河省主席湯玉麟は満洲国独立宣言書に署名し執政溥儀に対し臣礼を行った。

これらによって熱河省が満洲国の一部たることは厳然たる事実であるとし、従って熱河省内の治安を乱す者は満洲国の不逞分子、他より省内に侵入する者は侵略者であるので他国が干渉すべきものではないと唱えた[37]

内田によれば、その正当性は逆説的に「長城以南への侵攻には正当性がない」ことを示していた[38]1月13日の閣議では、陸相は満洲国外には手を出さぬ方針を唱え[39]、関内への侵入を固く禁じる決定が文書でなされた[40]

1月21日の帝国議会演説において内田康哉外務大臣は政府の正式認識として「熱河問題は満洲国の内政問題である」と述べたが、熱河省内で民衆が連日の戦闘に既に犠牲を出していたことから、中国側からは反発が起こった[41]。2月2日衆議院において陸相は熱河省には張学良兵団が3個旅団、湯玉麟部隊、さらに他の方面からの兵匪が集まり9万の兵がいるものの必ずしも一致したものでないことから帰順するものがあると判断するとともになるべく混乱が他の方面に及ばないように慎重な方法を取ることを表明した[42]


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