堺屋太一
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堺屋 太一(さかいや たいち、1935年昭和10年)7月13日 - 2019年平成31年)2月8日[1][2])は、日本通産官僚[3]小説家評論家位階従三位勲等旭日大綬章

経済企画庁長官(第55?57代)、内閣特別顧問内閣官房参与などを歴任した。また、株式会社堺屋太一事務所および株式会社堺屋太一研究所の代表取締役社長であり、様々な博覧会プロデューサーとしても活動していた。

本名は池口 小太郎(いけぐち こたろう)であり、ペンネームの由来は、先祖の商人安土桃山時代から谷町に移住した際の名前である「堺屋太一」から採ったものである(堺屋は屋号にあたる)[4]
生涯
生い立ち

谷町に近い大阪市東区岡山町(現中央区玉造)生まれ。本籍地は、先祖の商家が堺に移住する前から本拠のある奈良県御所市名柄[5]。父は早稲田大学卒の在野の弁護士で、母は奈良県出身ながら上品な船場言葉を見事に操る呉服商の「いとさん」(令嬢)。

陸軍の師弟が多く通う大阪偕行社学院(現追手門学院小学校)(小学校59期)に入学[6]するが、1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲で玉造の自宅が焼け、父の実家の奈良県御所市に転居、名柄小学校に転入する。卒業後、名柄中学校に進むが、大学進学を考えると大阪の方が有利と考え、高校受験のため大阪市立昭和中学校越境入学した[7][8]

1951年(昭和26年)大阪府立住吉高等学校入学、在学中はボクシング部に所属し、モスキート級の大阪チャンピオンになった。社会科学研究会にも所属し、カール・マルクスの著書『資本論』など読みふけっていた[9]。奈良県下の実家から大阪の高校へ片道2時間をかけて通学した。毎日弁当を作る母に配慮して、ある時から炊いた白米のみを持たせてもらい、毎日学食でそれにカレールーをかけてもらいカレーライスを食べていた。これが青春の味であり「年に200回、(高校)3年間の累計では500回以上も食べていた」[10]

進路指導の際、担任教諭は、大阪大学も無理だから大阪市立大学あたりにしろと言うつもりだったが、「東大(に進学したい)と言うなら、もう何も言わない。自分で頑張ってほしい」と告げる。

1954年住吉高校卒業後、大学受験に失敗。「50歳ぐらいまで夢に見続ける」ほどで[7]、滑り止めの慶應義塾大学法学部に入るが、すぐ退学。2年間の浪人生活の後、1956年昭和31年)兄と同じ東京大学に合格。浪人中に建築設計事務所アルバイトと勉強をしており、建築への興味と一級建築士並みの知識があり、実際、学生会館の設計の学内コンペで1等賞も受賞したことから工学部建築学科に進もうとする。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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