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3年の喪があけてから、舜は丹朱を天子に擁立しようとしたが、諸侯も民も舜のもとに来て政治を求めたので、やむなく舜が即位した[8]

なお、堯舜の批判をした韓非は韓非子にて、この禅譲に対して、「堯が天下の王だった時は、質素な宮廷で、粗末な食事を食べ、貧しい衣服を着ていた。今の世の門番が貧しいとはいえ、これよりはましである。これらのことから言えば、かの古の時代の天下を譲るということは、門番の貧しい生活を捨てたり、奴隷の労役から離れるということだ。だから天下を譲るといっても、たいしたことではない」と評している[9]
堯舜の伝説の形成

舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、中国人民日報2000年山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。

また1993年郭店一号楚墓から発見された竹簡には堯や舜の事跡が記録されており、注目されている。
堯舜伝説の異説

代の歴史家の劉知幾は、その著書『史通』で、堯舜伝説を否定する以下の内容のことを書き残している。『山海経』等の歴史・地理書には、「囚堯城」や「帝丹朱」という記述があり、このことから想定するに、堯は実力者の舜に強制的に退位させられ、「囚堯城」に幽閉された。それから間もなく、舜は丹朱(帝丹朱)を即位させたが、しばらくして、人々の支持はことごとく自分に集まっているとして、丹朱を廃して自身が即位したのではないか。第一、そんなに徳の高い大人物が次から次と出て来るものだろうか。

また、韓非は、「韓非子」において、堯が名君で民を良く治めていたとすれば、舜が悪きを改め、良い立派な行いをして人々を助けるということはそもそも起こりえない。一方が立派な人物だとすれば他方はそうではなくなってしまう。したがって、両方の者が同じく最高の人物で、理想的な政治を行ったというのは話が合わず、あり得ないとした。この例え話として、今日でも使われる故事成語、「矛盾」が使われたのである。
鼓腹撃壌

堯の御世も数十年、平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに、天下が本当に治まっているか、自分が天子で民は満足しているか、かえって不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て自分の耳目で確かめようとした。ふと気がつくと子供たちが、堯を賛美する歌を歌っていた。これを聴いた堯は、子供たちは大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふと傍らに目をやると、老百姓が腹を叩き、地を踏み鳴らしながら(鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。

原文書き下し文現代語訳

日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力何有於我哉

日出でて作(な)し、
日入りて息(いこ)ふ。
井を鑿ちて飲み、
田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。

日の出と共に働きに出て、
日の入と共に休みに帰る。
水を飲みたければ井戸を掘って飲み、
飯を食いたければ田畑を耕して食う。
帝の力がどうして私に関わりがあるというのだろうか。

この歌を聴いて堯は世の中が平和に治まっていることを悟った、とされる(『十八史略』)。
出典^ 御手洗勝『古代中國の神々』創文社1984年、455頁。
^史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の36頁。
^ 「学習漫画 中国の歴史 人物事典」2008年10月8日発行、監修・春日井明、12頁。
^史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の37頁。
^史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の38-39頁。
^史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の41-42頁。
^史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の41-44頁。
^史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の44-50頁。
^ 韓非子 五蠹

参考文献

吉田賢抗史記』一(本紀)(新釈漢文大系)、明治書院、1973年。

関連項目ウィキメディア・コモンズには、堯に関連するカテゴリがあります。

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