堂島米会所
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帳合米商において即日売買を解除して一杯(いっぱい)になる日を「日計」(ひばかり)といって、夜越(よごし)となるのを「立米」といい、立米はその季の限市前3日間にいままでの売買を解除しなければならなかった。したがって3季とも限市前3日間を「仕舞寄商」(しまいよせあきない)あるいは「立埋一条」といって、新規の売買を許さず、もっぱら売埋(うりうめ)、買埋(かいうめ)をさせた。これは後の米相場とは異なる点である。もしも売埋、買埋を忘れて米が残るなどした場合にはこれは「間違米」といって正米、正銀で授受する。

市場で売買する米、いわば標準米を「建物米」という。これは筑前周防長門広島の四蔵米のうち1を入札で選定し、第1季と第3季との建物米には四蔵米のうち1を建物米にし、第2季の建物米は入札せず、いつでも加州米を建物米にした。これは享保年間、堂島の仲買が江戸表に出府したが、費用不足で加州家から金を融通してもらったその報恩であるという。

帳合米の売買の石高は100石が最小額であった。正米商と同じように仲買の思惑によって、あるいは客方の注文によって売買し、客方の注文には問屋は100石あたり5匁ないし2匁5分の日銭を徴した。売買の開始は正米商と同時で、正引すなわち正米商の引方とともに一時売買を中止する。これを「消」という。日が短い、あるいは相場に乱高下があるときは火縄まで消えないことがある。八ツ時過、水方役がそろって寄場に出て2寸余の火縄に火を点け、箱に入れて、寄場の規則が書かれた看板の下の格子に掛けてその周囲を保護して、合図の拍子木を打って売買を再び開始し、火縄の消えた時また拍子木を打ってこれを報じる。このときの値段を「火縄値段」あるいは「大引値段」といって、最も大切な値段として町奉行に上申する。

x月x日の帳合米値段とはこの火縄値段をいう。火縄が消えれば、場に集まった仲買は退き散るのが当然であるが、なおも売買を続ける者もあって、そのときは水方役が水を撒き追い散らした。水方役という名称の由縁である。これには一番水、二番水、三番水があって、三番水の時の値段を「桶伏値段」といって相場触に記入された。
評価

江戸時代においては、金貨、銀貨、銅貨(銭)の交換比率が市場に委ねられた変動相場制であった。かつ東日本は金が主体、西日本は銀が主体で、貨幣が全国的に統一されていなかった。そのため米が基軸通貨的役割を果たしており、堂島米会所は単なる先物取引市場ではなく、米を仲介しての金銀銅の交換比率を決定する、為替市場としての役割をも担っていた。

大阪大学宮本又郎教授の論文@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「堂島における正米価格・帳合米価格の動きとヘッジ機能」[要出典]では、当時の堂島米会所でどれくらいの取引がリスクヘッジされたのかが掲載されている。1758年から1863年までの期間を対象に調べた結果[注釈 1]、全体の取引のうち約70%ほどがリスクヘッジが有効に機能したと紹介している。

アメリカ合衆国の経済学者マートン・ミラーは堂島米会所を評価し、1998年12月6日に放送されたNHKスペシャルマネー革命 第3回・金融工学の旗手たち』において「(明治政府の)規制さえなければ、日本はこの分野(注:先物取引)の先駆者になれたかもしれません」と発言している。だが、本山美彦は、歴史的経緯から、堂島米会所は「幕末の金融システムを破壊した」元凶である、とミラーの発言を批判している[3]

延売買公認の触書

近来米穀相場の儀に付、願有之依て、米商人とも、無覚束存、相場の障りに成候様相聞へ候に付、向後、右の願一切不取上筈に候間、大坂米商内は古来より致来候仕法を以て、流相場商内、諸国商人並に大坂仲買共、勝手次第に可仕候、両替の儀は、有り来り候五拾軒の両替屋、取計、相対次第、舗銀、其外相場差引勘定等の義、前々の通り致商内、随分手広く、少にても米商内の障りに成候義、無之様可致候、其趣を以て、心次第商内可仕候、尤冬木善太郎米会所の儀相止め、取組古来より有来りの儀は、構も無之、若、古来に無之儀を、新規に拵出し、古法と紛敷義有之ば、詮議の上、急度、曲事可申付候、商内に付ては、公事訴訟は、古来の通り不取上候、然とも、有来の外に於ては、格別にて、仲買共、自分の趣意を以て、猥に仲買仲間の騒しき義、無之様可致候、
右の趣、従江戸表被為仰下候間、三郷町中可相触もの也
日向
土佐
享保十五年戌八月十三日[4]
関連書籍

「堂島米市場史」(須々木庄平
、日本評論社、昭和15年)

「徳川時代の証券市場の研究」(島本得一、、産業経済社、昭和28年)

「蔵米切手の基礎的研究」(島本得一、産業経済社、昭和35年)

「近世日本の市場経済」(宮本又郎、有斐閣、昭和63年)

「物語で読み解くデリバティブ入門 」(森平 爽一郎  (著)、日経BPマーケティング、日本経済新聞出版、2007年3月1日)

「近世米市場の形成と展開―幕府司法と堂島米会所の発展―」(高槻 泰郎 (著)、名古屋大学出版会、2012年2月10日)

「大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済 」(講談社現代新書) (高槻泰郎 (著)  、講談社、2018年7月19日)

「豪商の金融史:廣岡家文書から解き明かす金融イノベーション」(高槻 泰郎 (著, 編集)、慶應義塾大学出版会、2022年7月6日)

堂島米会所を舞台とした作品

大坂堂島米会所物語(島実蔵、時事通信社、1994年)
ISBN 9784788794221

米将軍・吉宗に挑んだ男 - 上記を原作とするテレビドラマ。テレビ大阪開局15周年記念番組。1998年2月3日放送[5]

一手千両 なにわ堂島米合戦(岩井三四二、文藝春秋、2009年) ISBN 9784163282008

後身:大阪堂島商品取引所

2011年8月8日から2年間の試験上場という形で東京穀物商品取引所と関西商品取引所で米の先物取引が復活した。2013年2月12日、関西商品取引所は堂島米会所にあやかる形で大阪堂島商品取引所と改名すると共に東京穀物商品取引所から米の先物取引を移管して日本唯一の米先物取引所となった。詳細は「大阪堂島商品取引所」を参照

大阪堂島商品取引所と並んで、堂島米会所の系譜を継ぐ大阪取引所は2018年10月24日、株価指数先物取引の開始30周年記念碑「一粒の光」を米会所跡地に建てた[6]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 加藤慶一郎によれば、この期間すべてを分析したのではなく、「天保期にはデータの空白期がある。宮本氏はその時期の分析を留保されている」
(加藤 慶一郎「近世中後期大坂における米穀流通機能の変質過程--堂島帳合米商内のヘッジ機能を中心にして」『社会経済史学』第58巻第2号、1992年6月、177頁、doi:10.20624/sehs.58.2_172。


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