堀辰雄
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フランス文学心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した[4]肺結核を病み、長野県軽井沢に度々療養、当地を舞台にした作品を多く残し[2]、晩年には終の住処とした。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造中村真一郎福永武彦丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。戦争末期からは結核の症状が悪化し、戦後はほとんど作品の発表もできず、闘病生活を送り48歳で死去した[5][2]
生涯
幼少時代

1904年(明治37年)12月28日東京府東京市麹町区麹町平河町5丁目2番地(現:東京都千代田区平河町2丁目13番)にて出生[4]。実父・堀浜之助は広島藩士族で、維新後上京、東京地方裁判所の監督書記を務めていた[6][4]。母・西村志気は、東京の町家の娘。「辰雄」という名前は、辰年生まれにちなんで命名された[4]。浜之助には国許の広島に妻・こうがいたが病身で子がなく、辰雄は堀家の嫡男として届けられ、母・志気も堀家で同居する[6][4]1906年(明治39年)、正妻・こうが上京することになったため、産んだ子を手放したくない志気は2歳の辰雄を連れて堀家を家出し、本所区向島小梅町(現:墨田区向島1丁目)の妹夫婦の家へ移る[6][4][2]。それからほどなく実父・浜之助は脳を患った[6]1908年(明治41年)、辰雄4歳の時、母・志気は向島須崎町の彫金師・上條松吉(寿則と号した)に嫁いだ[4][6][7][8][9]

辰雄の母も養父も、江戸っ子肌のさっぱりした気性であったため、子のことで一度も悶着することもなく、誰の目にも本当の親子と見られ、辰雄も養父・松吉のことを実の父親と信じ、父が死ぬ日までそれを疑ったことがなかった[6][4][10]。なお、実父の堀浜之助は、1910年(明治43年)4月に死去した[2]。その妻・こうも1914年(大正3年)に死去し、以後、浜之助の恩給は辰雄が成年に達するまで受給されることになった[4][2]。母・志気はこのお金を辰雄の学費として貯えた[11]
数学少年の文学開眼

1917年(大正6年)3月に牛島小学校(現:小梅小学校)卒業後、東京府立第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校)へ進み、4年修了で、1921年(大正10年)4月に第一高等学校理科乙類(ドイツ語)へ入学[4][2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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