文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に参陣する。文禄2年(1593年)には伏見城工事に貢献した。 これらの功績から、慶長3年(1598年)4月に越前北ノ庄18万石から越後春日山30万石へ加増移封され、その際に村上義明(9万石)、溝口秀勝(6万1000石)、堀親良(3万石)、堀直寄(1万石)を与力とした。秀治は24歳のため、豊臣秀吉は堀直政をして補佐せしめた[3]。また、越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が前半歳の租税を徴したので、返還を求めたが、上杉氏はこれを拒否した[4][3]。秀治は入部すると春日山城の矢倉・堀の普請を行ない、慶長5年(1600年)には福嶋の地に居城移転の計画を立てた[5]。慶長年間に二段階に分けて太閤検地方式を行う、従来の上杉検地方式の否定であり、上・中越後に総検地を実施し、幕藩体制の基礎を確立し、その後の越後諸藩の検地制度に大きな影響を与えた[6]。 慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去すると徳川家康に接近し、一族の堀直重を人質として江戸に送った。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、それ以前の4月に直江兼続の密命で越後国内で発生した上杉旧臣・神官・僧侶の一揆を鎮圧した(越後一揆 一揆の直接原因は上杉氏によるものであるが、秀治は直江兼続に年貢を持ち出されて財政が困窮していたため、財政強化のために堀検地を実施して漆などにも年貢をかけ、そのため領民の不満が高まり、寺社統制も強めて真言潰しと称される真言宗弾圧を行った結果とする説もある[5]。 慶長11年(1606年)3月に31歳で死去し(『寒松稿』)[8]、跡を嫡男の忠俊が継いだ[5]。
越後国主
関ヶ原の戦い
脚注[脚注の使い方]^ 田嶋悠佑「堀秀治論」(『研究論集 歴史と文化』7号、2021年)
^ 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年、37頁。
^ a b 木村 1944, p. 360.
^ 木村 1944, p. 105.
^ a b c 村山 2008.
^ 小村 1973.
^ 木村 1944, pp. 360?364.
^ 川口市『川口市史』近世資料編三(1983年)
参考文献
木村徳衛『直江兼続伝』(私家版)、1944年。
村山和夫『シリーズ藩物語 高田藩』現代書館、2008年3月。
小村弌「堀秀治の検地とその歴史的意義」『新潟大学教育学部紀要』15号、1973年。
角明浩「越前北庄城主期の堀秀政・秀治―発給文書の検討を通して―」『戦国史研究』70号、2015年。
田嶋悠佑「堀秀治論」(『研究論集 歴史と文化』7号、2021年)
関連項目
福島城 (越後国)
永井久太郎
表
話
編
歴
堀氏高田藩初代藩主 (1598年 - 1606年)
堀家
堀秀治1598-1606
堀忠俊1606-1610
越後福嶋騒動により改易
長沢松平家
松平忠輝1610-1616
不祥事その他諸事情により改易
酒井家
酒井家次1616-1618
酒井忠勝1618-1619
信濃松代藩に転封
福井松平家
松平忠昌1618-1623
越前福井藩相続
越前松平宗家
松平光長1624-1681
越後騒動により改易。のち光長の養子宣富が美作津山藩を立藩。
1681年から1685年まで幕府領
稲葉家
稲葉正往1685-1701
下総佐倉藩に転封
戸田家
戸田忠真1701-1710
下野宇都宮藩に転封
久松松平家
松平定重1710-1712
松平定逵1712-1718
松平定輝1718-1725
松平定儀1725-1727
松平定賢1727-1741
陸奥白河藩に転封
榊原家
榊原政純1741-1745
榊原政永1745-1789
榊原政敦1789-1810
榊原政令1810-1827
榊原政養1827-1839
榊原政愛1839-1861
榊原政敬1861-1871
廃藩置県