太平洋戦争に出征し陸軍主計少尉[2]となるが、病のため1944年(昭和19年)ラバウルから帰還し除隊となる[5]。1945年(昭和20年)山形県警察部特別高等警察課長に赴任[2][3][5]。石原莞爾の監視を命ぜられていたが、その弟子となる[5]。
戦後に公職追放となる[5]。そのため各種の事業を経営したがいずれも失敗[5]。1951年(昭和26年)に追放解除となり、山形県総務部長に就任[2][3][5]。村山道雄知事を補佐し、1955年(昭和30年)の山形県知事選挙で村山を応援したが落選し山形県庁を退職した[5]。その後、防衛研修所(現防衛研究所)員を経て[5]、1956年(昭和31年)4月、防衛庁(現防衛省)広報課長に就任[2][5]。国防会議(現国家安全保障会議)参事官、防衛庁教育局長、同人事局長を歴任した[2][3][5]。
1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙に山形県第1区から無所属で出馬して落選[6]。1969年(昭和44年)12月の第32回総選挙に無所属で出馬して当選[2][3][6]。山形県自衛隊父兄連絡会長、東急顧問、自由民主党災害対策副委員長、同山形県連常任顧問などを務めた[2]。議員在任中の1971年12月に死去し、衆議院議員に1期在任した[2][6]。
著作
『日曜日の随想』朝雲新聞社、1965年。
『激動期に生きる:わたくしの戦後史』朝雲新聞社、1966年。
『ひとすじの道』朝雲新聞社、1969年。
脚注
注釈^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』575頁では山形県。
出典^ 『山形県年鑑 昭和47年版』316頁。
^ a b c d e f g h i j k 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』575頁。
^ a b c d e f 『山形県大百科事典』856頁。
^ a b c d 『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、334頁。