堀河天皇
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 13. 藤原尊子 
 
        

 27. 源明子
 
     

 3. 藤原賢子 
 
              

 28. 源隆国
 
     

 14. 源隆俊 
 
        

 29. 源経頼
 
     

 7. 源隆子 
 
           















系図

   

71
後三条天皇 

                         
                       
72 白河天皇 実仁親王         輔仁親王 篤子内親王

                      
               
73 堀河天皇 覚行法親王 覚法法親王 ?子内親王
(郁芳門院) 源有仁
(有仁王)

         
     
74 鳥羽天皇 最雲法親王

             
          
75 崇徳天皇 77 後白河天皇 76 近衛天皇

       


后妃・皇子女

叔母で19歳年長である中宮篤子内親王との間には皇子女が誕生せず、父の白河院の差配のもとに白河院の従妹に当たる藤原苡子女御とし、その間に皇子の宗仁親王(鳥羽天皇)が生まれた。苡子は産後まもなく死去したため、宗仁親王は白河院に引き取られてその下で養育された。

中宮:篤子内親王(1060年 - 1114年) - 後三条天皇第四皇女

女御(贈皇太后):藤原苡子(1076年 - 1103年) - 藤原実季

宗仁親王(鳥羽天皇)(1103年 - 1156年)


典侍:仁子女王(? - 1126年) - 康資王

?子内親王(大宮斎院)(1099年 - 1162年) - 賀茂斎院


典侍:藤原宗子(? - 1129年) - 藤原隆宗女、後に藤原家保

寛暁(1103年 - 1159年) - 大僧正


藤原時経女

最雲法親王(1105年 - 1162年) - 天台座主


生母未詳

懐子内親王

喜子内親王[注釈 4] - 伊勢斎宮


在位中の元号

応徳 - 応徳3年11月26日(1087年1月3日)践祚、応徳4年4月7日(1087年5月11日)即位により寛治に改元

寛治 - 寛治8年12月15日(1095年1月23日)疫病流行により嘉保に改元

嘉保 - 嘉保3年12月17日(1097年1月3日)天変・地震により永長に改元

永長 - 永長2年11月21日(1097年12月27日) 天変・地震・洪水・大風により承徳に改元

承徳 - 承徳3年8月28日(1099年9月15日)地震・疫病により康和に改元

康和 - 康和6年2月10日(1104年3月8日)天変により長治に改元

長治 - 長治3年4月9日(1106年5月13日)天変により嘉承に改元

嘉承 - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日)崩御

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある後圓教寺陵(後円教寺陵:のちのえんきょうじのみささぎ)に治定されている[7]。宮内庁上の形式は円丘。同じ朱山にある一条天皇陵と同域である。

また皇居では、宮中三殿のひとつの皇霊殿において他の歴代天皇や皇族とともに堀河天皇の霊が祀られている。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「弦管歌詠之遊、天性所授、不愧往古」[5]
^ 「近来ノ上手ハ堀河院ニ御ナリ。全ク比類ナシ。誠ニ言語ノ及ブトコロニアラズ。」[6]
^今鏡』『和歌色葉集』によるが、永縁・源顕仲のいずれか、または双方を加て15名ないし16名とした伝本もある。
^ 『諸家系図纂』によると、喜子内親王の母を仁子女王とする。

出典^ 『堀河天皇』 - コトバンク


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