堀江貴文
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これと同時期に映画「ウォー・ゲーム」を観たことをきっかけにコンピュータと出会う。この年はつくば万博が開催されたこともあり、子どもたちの科学SFに対する関心が高まっており、貴文も科学雑誌を読み漁っていた。そこで両親を説得し、合格祝いに日立MSXパソコン「H2」を買ってもらう。毎日深夜までプログラミングに明け暮れる[18]

その後、初心者用のMSXパソコンでは満足できなくなり、両親から20万円を借りて「PC?8801mkUFR」を買う。借金は新聞配達で返済した。

中学2年生のとき、当時としては珍しいCAIによる英語スクールでパソコンを使用していたところ、塾講師からすべてのパソコンを日立からNECの新しいパソコンに入れ替える際に、教材システムの移植作業をやらないかという話を受けた。これを受け入れ、約1か月かけて完成させることで10万円の報酬を受け取った[18]
高校

ますますコンピュータに熱中したしたことで、当時の標準言語であったBASICのみならず、より高度な言語も習得していき、より複雑なプログラ厶まで組めるようになっていった[18]。一方で、勉強は疎かになってしまい、入学当時トップ10クラスだった成績は高校進学時には学年200人中199番(ワースト2)まで下がってしまった[18]。また同時期にはパソコンを取り巻く環境に幻滅したことでコンピュータからも離れてしまう[18]

高校在学時に同級生の多くは九州大学への進学を考えていたが、同様に進学した場合、実家からの通学を強制される可能性があり、こうした環境から脱出するため、地元から遠い場所で、両親でも知っていて説得材料になる大学、東京大学を目指すことにした。この時既に受験の半年前でありながら東京大学に現役合格する[18][19]
会社設立

大学在学中にやっていたプログラミングのアルバイトインターネットと出会う[20]

1996年4月、有馬あきこらと共に有限会社オン・ザ・エッヂを設立。同社設立後に東京大学を中退した。資本金には、有馬の父からの出資600万円が用いられた。1997年株式会社に改組。同社は、当時のインターネットが普及しはじめた黎明期に、いち早くホームページ制作・管理運営を行う会社として注目を集め、レコード会社などの一流企業のサイト制作を請負った。

2000年4月に売上高2億5000万円で東証マザーズに上場した[13]2002年、経営破綻した旧ライブドア社から営業権を取得した上で、ライブドアへ社名を変更した。ライブドアは証券取引法違反(ライブドア事件)により、2006年4月14日に上場廃止となった。
球団買収計画と失敗

2004年に経営難でオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)との合併が決定されたプロ野球球団、大阪近鉄バファローズの買収を申し出た。買収の申し出を拒否されると、今度はそれまで球団のなかった東北に新球団を設立する計画を発表。球団名を「仙台ライブドアフェニックス」とし、監督としてトーマス・オマリーを招聘すると発表した。本業の競合他社でもある楽天と参入を競い合うが経営体力の不足などが指摘され、審査の結果、楽天(東北楽天ゴールデンイーグルス)の参入が決定。ライブドアの参入は実現しなかった。後に「(プロ野球のドンである)ナベツネに挨拶しとけば買収できたし、日本放送買収もなかったから捕まることはなかった(笑)」と語っている。
ニッポン放送買収計画と失敗「ニッポン放送の経営権問題」も参照

2005年2月、自身が社長を務めるライブドアがニッポン放送の株の35%を取得、同社最大株主となった。同月中にさらに40.1%まで買い増し、最終的にニッポン放送を子会社化することに成功する。しかし、メディアなどの圧力でリースなどが出来なくなり、2005年4月、ライブドアの所有するニッポン放送株式全てをフジテレビジョンが取得したことで買収は失敗した。その際、フィクサーと呼ばれるアラビア石油の人物が現れ、「買った値段で売却しろ!」と迫るが、堀江はこれを拒否。その結果、メディアが脱税を大々的に取り上げたものと思われる。同時進行で行われていた楽天のTBS買収についてTBSの記者が話しかけてきた際、堀江は「三木谷の所にもフジテレビが行ってたんじゃ?」と言っている。ソフトバンク楽天は買った値段でメディアに売却した。
政治活動
第44回衆院選への出馬と落選外国特派員協会での記者会見尾道で事務所開きをする堀江

2005年8月16日、いわゆる「郵政解散」に伴う総選挙において、自由民主党から福岡1区での立候補を打診されたが、出馬するかどうかは未定であるとした。一方、民主党(当時)の岡田克也代表(当時)とも会談を行うが、同党からの立候補は見送られた。

自民党内からは堀江の擁立に対する批判が相次いだほか、堀江が自民党の説得に応じず、ライブドアの社長を辞めないことを表明。堀江は無所属として、郵政民営化反対の急先鋒であり、当時自民党を離党し国民新党を結党した亀井静香の選挙区である旧広島6区尾道市三原市など、現在は広島5区に再編。)で立候補すると発表した。前述の経緯により名目上は無所属候補であったが、立候補の記者会見を自民党本部で行っていたこと、広島6区で自民党・公明党が候補を擁立しなかったこと、武部勤自民党幹事長(当時)や竹中平蔵経済財政政策担当大臣(当時)など自民党大物幹部が堀江の応援演説に訪れていたことから、自民党による亀井への対立候補として世間から認知されるようになった。武部はこの際、「我が弟です、息子です」と堀江を持ち上げた。対立候補の亀井は、堀江について「自民党の刺客が自民党を名乗らない。忍者かね」と批評した。

2005年9月6日には、東京都内の日本外国特派員協会講演で「憲法天皇は日本の象徴であると言う所から始まるのは、はっきり言って物凄く違和感を覚える」「歴代の首相、内閣、議会が変えようとしないのは多分、右翼の人達が怖いから」「インターネットの普及で世の中の変化のスピードが速くなっているから、リーダーが強力な権力を持つ大統領制にした方が良い」という天皇を否定するとも取れる発言が物議を醸した。選挙特別番組でも亀井が「自民党が天皇を否定するような人物を擁立すべきでない」と述べ、自民党幹事長代理の安倍晋三などに対し不満を漏らした。

選挙の結果は、亀井の地盤である広島6区では厳しい選挙戦を強いられ、公明党支持者からの票を得るために「比例は公明党に」と連呼までして終盤で追い上げたが、結局は亀井静香11万票に対して次点の8万4千票で落選した。民放の開票速報番組で、「比例は公明」と訴えていたことについて丸山和也(のちの参議院議員)に真意を尋ねられると、「公明党は改革を支持している政党だから」と発言した。

落選後、今後の衆院選で同じ広島6区から出馬する意向を示唆していたが、翌年の証券取引法違反事件で自身が東京地検に逮捕されたことにより、4年後の2009年8月の総選挙には出馬しなかった。また2010年の参議院選挙ではかつての対立候補であった亀井静香より国民新党からの出馬を打診されたが辞退している。
衆院選後の活動

2010年の参院選では、田村耕太郎民主党)、中田宏日本創新党)、松田公太みんなの党)の応援演説に立った[21][22]


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