堀川通(ほりかわどおり[1])は京都市の主要な南北の通りの一つ。平安京の堀川小路にあたる。一部区間には堀川を挟んで、東堀川通と西堀川通があるが、通常は西堀川通を堀川通と呼ぶ。 北は鴨川堤の加茂街道から南は東海道本線交差部北で一筋東を走っていた油小路通に合流し、全長約7.9km[2]。幹線道路としては一続きながら、南は油小路通と別の名前をつける。堀川紫明以北は4車線の幹線道路、堀川紫明から堀川今出川までは中央分離帯の幅も広いゆったりとした6車線の幹線道路。堀川今出川から堀川御池は後述の通り堀川が明り区間で、東西堀川通が並び残っている。御池から暗渠になった堀川の上も道路となり、堀川五条でやや東に振れて醒ヶ井通を合わせ、西本願寺北で鍵の手に東に折れ、堀川七条で暗渠のまま堀川は西に逸れ、堀川通は東海道本線北で一筋東の通りである油小路通に合流する。合流点以南の通りの名称は「油小路通」である。 七条以南では交通量の少ない西堀川通が堀川通と一区画離れて、暗渠となった堀川の上を通っている。 堀川五条 平安京の堀川小路に端を発する。南流する堀川の両岸に小路が配された。平安時代には堀川の川幅は4丈(約12メートル)とかなり広く、平安京建設時に物資運搬用水路として利用された[3]。 『京都坊目誌』[4]によれば、「一条以北は建久以来の開通」とし、五条以南は天正19年(1591年)「本圀寺の再建・本願寺の建立に際し、道路を閉塞」した[3]。 宝暦12年(1762年)刊の『京町鑑』によれば、寺之内通から万寿寺通までとし、「今出川通下ル町」から東堀川通と西堀川通があるとする。また、当時の堀川の水は、賀茂川を水源とする二股川と若狭川を合したものと記されている[5]。 鞍馬口通から北は、昭和初期の土地区画整理事業において整備された。 昔は東堀川通、川の堀川、西堀川通は同程度の幅であった。西堀川通は第二次世界大戦時に防火帯として沿道の家屋が強制疎開させられた跡が幹線道路として整備されることになり、昭和23年(1948年)6月に鞍馬口通から七条通まで5.4kmの拡幅が着手され、昭和28年(1953年)3月に完了した。次いで昭和38年(1963年)に北大路通から上賀茂までの1.6kmが舗装された。七条通から八条通までの1kmは、国鉄東海道本線との立体交差工事が昭和39年(1964年)10月に完成し、現在の広い通りになった。[6]。 京都電気鉄道が開通させた後の京都市電堀川線(通称北野線、N電)は、1961年(昭和36年)に廃止になるまで狭い東堀川通を堀川中立売から四条堀川まで走っていた。 河川としての堀川は今出川通から御池通までの区間は地上に出ているが大部分は暗渠である。現在は流量が少ないが、かつては京友禅の染色に利用されていた。
現状
歴史
堀川
沿道の主な施設
御土居 史跡指定 最北端を堀川通が切り通す
京都北郵便局 北山堀川角
京都府警察北警察署 紫竹通角
伝紫式部、小野篁墓 北大路下ル
淡交社 紫明通、鞍馬口通角
本法寺 堀川寺之内上ル
茶道総合資料館 同上
宝鏡寺 堀川寺之内東入
医療法人西陣健康会堀川病院 堀川今出川上ル
白峯神宮 堀川今出川東入
西陣織会館 堀川今出川下ル
晴明神社 堀川元誓願寺下ル本殿は一筋西の葭屋町通)
一条戻り橋 一条通の堀川に架かる
堀川団地 堀川中立売下ル - 椹木町上ル
伊藤仁斎古義堂阯 堀川出水下ル
駿台予備学校京都校 堀川丸太町下ル
二条城 堀川竹屋町から堀川押小路
京都全日空ホテル
京都市立京都堀川音楽高等学校(堀川門)
京都市営地下鉄東西線 - 二条城前駅 堀川御池地下
中京区役所・京都市中京保健所・京都市中京消防署 堀川御池角
京都市立堀川高等学校 堀川錦小路上ル
堀川五条
京都東急ホテル 堀川五条下ル