堀威夫
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堀は、娘と両親を口説いたが、絶対に田舎に残ると言い張った[9]。堀はガックリ来たが最もショックだったのは「ホリプロ」という自分のプロダクションが両親や少女にまったく知られていないことであった。ところが、「渡辺プロ」なら知っていると言う[9]。このとき堀はつくづく社名を売らなければいけないと感じた[9]

堀は帰京し、"束の哲学"で足の太い娘を売ろうと決心した。"ホリプロ3人娘"として森昌子石川さゆりとともに売る方針が出来上がった。それがのちの大スター山口百恵であった[9]。百恵の前のクールで優勝したのが桜田淳子である[9]。彼女は相澤秀禎サンミュージックに所属したが、森昌子、山口百恵、桜田淳子をマスコミは花の中3トリオと名付け次代を担うスターとして扱った。そのなかで山口百恵の活躍は華々しかった[9]。百恵は続々とヒットをとばし、映画にも11本出演、1本平均200万人の観客を動員し約110億円の配給収入をあげた[9]。ホリプロも潤い、百恵だけで年間約10億円、ホリプロ全売り上げの22パーセントを稼いだといわれる[10]

1979年(昭和54年)暮も押し迫った頃、百恵から「相談がある」と急な連絡があった。ある夜、食事をしたら「友和さんと結婚します。結婚を機に引退したいと思います」と告げられる。仰天したが慰留はしなかった。ただマスコミが騒ぐに違いないから「誰にも言わないように」と伝えた[11]。ホリプロ創業20周年のパーティーが行われる80年10月15日に引退し、およそひと月のち結婚式と披露宴が行われた[11]。百恵は母子家庭で育ったことから堀は父親役になってバージンロードを歩いた[11]
ホリプロタレントスカウトキャラバン

1975年(昭和50年)、"ホリプロ"という社名を全国津々浦々にまでに売り込むことを基本コンセプトにしてホリプロタレントスカウトキャラバンを始める[12]。ホリプロは日本全国のタレント志望の少年、少女に向かってマスメディアを使い事あるごとにキャラバンをアピールした[12]。そのうえ、かつての人気スターでありホリプロ第1号タレントである守屋浩を引退させ、表方から裏方に回し、ホリプロの役員として堀とともにキャラバンに参加させた[12]。スター誕生の全盛期であり、そのなかから、森昌子、山口百恵を育てたプロダクションということで、応募が殺到し、次代を担うタレントの発掘に成功していく[12]。キャラバンの初代チャンピオンが榊原郁恵である[13]
演劇制作に踏み出す

新宿コマ劇場プロデューサーからブロードウェイ・ミュージカルピーターパン」を上演しないかと打診され、アイドルからファミリー路線への転換を考えていた榊原郁恵の起用を考えた[14]。契約はトントン拍子に運ぶが、劇場プロデューサーも社員も郁恵起用には反対した。コロコロしていて少年役は合わないというのだった[14]。しかし、郁恵は見事にスリムになり、タレントのイメージ戦略で始めた81年夏の興行は、大入りとなった[14]。上演を重ねるうち、演劇も経営資源になるのかと思い始め[14]、舞台作品の制作を広く手がけるようになった。
家族

長男にホリプロ・エンターテインメント・グループ・インク社長の堀一貴、次男にホリプロ代表取締役会長兼社長の堀義貴
著書

『あなたをスターにしたい』潮出版社、1976年11月。 

『才能を育てる』講談社、1985年10月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4062022095。 

『いつだって青春―ホリプロとともに30年』東経、1992年11月。ISBN 978-4492552056。 

『わが人生のホリプロ』小学館文庫、2005年11月。ISBN 978-4094186611。 

『ホリプロって何だ?』財界研究所、2020年6月。ISBN 978-4879321404。 

関連人物・項目

浜口庫之助

大久保登志正 - 宇都宮ビジネス電子専門学校(UBDC)創設者。

ホリプロの人物一覧

銀座ACB - 東洋企画立ち上げのきっかけになったジャズ喫茶。ACBオーナー・谷富次郎が東洋企画の初代社長[15]。(ACBは「アシベ」と読む)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「人は年を重ねただけでは老いない、理想を捨てた時に老いが始まる。」の意。サミュエル・ウルマンの「青春」という詩の言葉。

出典^ 「私の履歴書 堀威夫(13)結婚」『日本経済新聞』2021年2月13日 40頁
^ 「私の履歴書 堀威夫(9)プロデビュー」『日本経済新聞』2021年2月9日 36頁
^ “2021年度の文化勲章受章者・功労者 主な業績”. 日本経済新聞. (2021年10月26日). https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE258RO0V21C21A0000000/ 2022年9月16日閲覧。 
^ a b c 軍司貞則 1995, p. 278.
^ ホリプロ創業者「芸能界入り奨学金」設立(日刊スポーツ、2014年4月14日)
^ BS朝日ザ・インタビュー?トップランナーの肖像?」(堀威夫×吉永みち子2016年1月31日放送より。
^ 妹尾河童 『河童のタクアンかじり歩き』
^ 「私の履歴書 堀威夫(26)株式公開上場で「認められた」実感、芸能ビジネス、行動思い切って」『日本経済新聞』2021年2月27日 44頁


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