堀口大學
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スペイン滞在時はマドリード日本公使館で、マリー・ローランサンと交歓しギヨーム・アポリネールを教えられる。スイスでは、トーマス・マン魔の山』の舞台になったサナトリウムで療養した。

1917年(大正6年)に外交官及領事官試験のために帰国し、日夏耿之介柳沢健長谷川潔を知る。第一次論文選考、第二次筆記試験には合格したが口述試験で病弱のため採用されず、外交官への道を断念。翌年に浅野合名会社嘱託通弁となり、永井荷風序文による処女作『昨日の花』を自費出版。リオデジャネイロから『三田文学』『炬火』に寄稿。1919年(大正8年)、最初の詩集『月光とピエロ』(永井荷風序文)、歌集『パンの笛』(与謝野鉄幹、与謝野晶子序文)を刊行。以後、ブラジルバイーア州ペルナンブーコ州、リオ、サンパウロサントスアルゼンチンウルグアイに滞在、ウルグアイではジュール・シュペルヴィエルを知る。

1923年(大正12年)ルーマニアへ赴く船中でポール・モラン『夜をひらく』を訳し、パリにモラン自身を訪ね翻訳出版の快諾を得た。長谷川潔や鈴木龍二らと再会交流し、藤田嗣治[2]や詩人アンドレ・サルモンらと交友。1925年(大正14年)に帰国した。

以後その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、多数の出版を手がけ、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。
帰国後の詩作活動訪日時のコクトー(中央)、左が堀口大學

彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与え、特に新感覚派運動の誘因となった。帰国後に文化学院大学部でフランス近代詩を講ずる。以後、ヴェルレエヌの研究評伝を手がけ、戯曲訳にも手を染め、ジャン・コクトーをはじめ、11家13篇を訳す。1928年昭和3年)日夏耿之介、西條八十との共同編集で詩誌『パンテオン』を創刊。岩佐東一郎青柳瑞穂城左門田中冬二矢野目源一、熊田精華らの若い詩人が集った。4月に文化学院を辞任。しかし、翌年に日夏耿之介と確執、決別し『パンテオン』が廃刊。自ら後継詩誌『オルフェオン』を第一書房から創刊し、新たに菱山修三が加入、機知感覚の詩風は、シュルレアリスム詩『詩と詩論』と共に詩壇に新風を与えた。

1932年(昭和7年)小石川区(現・文京区西部辺り)に居を構え、6月に『昼顔』を発行するが発禁処分となる。1935年(昭和10年)に日本ペンクラブ副会長に推される(会長・島崎藤村)、文芸誌『若草』の詩選を担当し、京都の『時世粧』の編纂人となる。1936年(昭和11年)5月にコクトーが来日した際は帝国ホテルに同宿して歌舞伎などを案内[3]した。国家総動員法公布に伴い、日本学者のジョルジュ・ボノーと野尻湖畔のレーキサイドホテルにこもり、仏訳に専心した。しかし、著書が情報局検閲で削除されるなど思想弾圧を受けた。1941年(昭和16年)に静岡県興津に疎開。翌年に師・与謝野晶子が死去し、青山で挽歌十首を捧げた。1945年(昭和20年)に空襲下の静岡を脱出し、新潟県関川村(現:妙高市)に再疎開。秋には父が亡くなり故郷で葬った。1946年(昭和21年)より新潟県高田市(現・上越市)に転居[4]
戦後疎開先の高田にて(1948年)

1947年(昭和22年)に詩集五冊を上梓したのを皮切りに著作活動を再開。翌年に東郷豊治西蒲原郡の旧家を訪ね、良寛の遺墨を観る。1950年(昭和25年)に疎開先から引き揚げ、神奈川県湘南葉山町に終生在住した。白水社草野貞之の知遇により、ボードレール悪の華』を全訳。

1957年(昭和32年)に日本芸術院会員。9月に国際ペン大会会長として来日したアンドレ・シャンソンと会談。1959年(昭和34年)『夕の虹』にて第10回読売文学賞を受賞。日本現代詩人会の「詩祭」で顕彰され、上司海雲と東郷豊治の案内で、秋篠寺唐招提寺薬師寺などを参観、日本全国を旅した。室生犀星詩集賞や読売文学賞選考委員となる。


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