埼玉西武ライオンズ
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監督松井稼頭央
選手会長外崎修汰
キャプテン源田壮亮
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株式会社西武ライオンズ
SEIBU LIONS種類株式会社
略称西武ライオンズ、西武、ライオンズ
本社所在地 日本
359-1153
埼玉県所沢市上山口2135番地
本店所在地171-0022
東京都豊島区南池袋一丁目16-15
設立1950年1月28日
(西鉄野球株式会社)
業種サービス業
法人番号6013301006279
事業内容プロ野球球団運営ほか
代表者後藤高志(オーナー)
奥村剛代表取締役社長
資本金1億円
売上高100億円(2010年3月期)
純利益15億1027万8000円
(2023年3月期)[1]
総資産95億2569万8000円
(2023年3月期)[1]
従業員数74人(2010年3月31日時点)
決算期3月末日
主要株主西武鉄道 100%
関係する人物西亦次郎中村長芳堤義明坂井保之根本陸夫
外部リンクhttps://www.seibulions.jp/
特記事項:1978年10月25日に福岡野球株式会社から現商号に変更。西武ホールディングス連結子会社である。
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埼玉西武ライオンズ
YouTube
チャンネル

埼玉西武ライオンズ

活動期間2009年6月18日 -
ジャンル野球
登録者数約15.7万人
総再生回数約7328万回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2021

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-10-27-00002023年10月27日時点。
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埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、英語: Saitama SEIBU Lions)は、日本プロ野球球団パシフィック・リーグに所属している。

埼玉県フランチャイズとし、所沢市にあるベルーナドーム本拠地、同さいたま市大宮区にある埼玉県営大宮公園野球場準本拠地としている。また二軍[注釈 1]イースタン・リーグ所属)の本拠地は、ドームと同じ敷地内にあるCAR3219フィールドである。

1950年のリーグ分裂時、福岡市に本拠地を置き西日本鉄道(西鉄)を親会社とする西鉄クリッパースとして発足、翌年に西鉄ライオンズと改称し、1972年に西鉄が撤退したあと1973年から1978年までは福岡野球の運営でチーム名が太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズと変遷した。その後西武グループに買収され、1979年から本拠地を所沢市に移して西武ライオンズとなり、2008年からは球団名を埼玉西武ライオンズに変更して現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。

リーグ優勝23回、日本一13回はいずれもパ・リーグ1位である。
球団の歴史
球団創立

西日本鉄道(西鉄)は第二次世界大戦中の1943年、それまでの大洋軍[注釈 2]を譲り受け、(旧)日本野球連盟に加盟する西鉄軍として経営していたが、同年限りで解散した[注釈 3]。また、連盟自体は1944年で活動を休止した。

1945年8月に第二次世界大戦で日本が降伏し、アメリカ合衆国を中心とした連合国占領下で連盟の活動が再開されると、1946年6月に西鉄はノンプロチームを立ち上げ、1948年には都市対抗野球で優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。西鉄初代社長の村上巧児は「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから、1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、1949年3月に連盟から復帰申請を却下されている。

ところが、1949年オフにプロ野球再編問題が発生した。1リーグ体制だった連盟がセントラル・リーグパシフィック・リーグの2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り[2]福岡県福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers)を結成。11月26日に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。

なお、西鉄は1948年11月15日にアメリカパンアメリカン航空と航空代理店契約を締結し[注釈 4][3][4]、国際航空物流事業に参入していた。球団名の由来は第二次世界大戦期に長距離旅客輸送用飛行艇として活用されたボーイング314の愛称「クリッパー」(Clipper)と考えられ、球団旗の原案には西鉄の社章の上に飛行艇が置かれたデザインも提示されていた[5]
福岡時代
西鉄時代
1950年

1月下旬に運営会社西鉄野球株式会社を設立登記した[注釈 5]。当初は西日本新聞社と共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地として西日本パイレーツを立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。

選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め、大津守深見安博河野昭修塚本悦郎ら、八幡製鐵鬼頭政一ら、星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で読売ジャイアンツ川崎徳次、福岡県出身で前年度南海ホークスで20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初は巨人が移籍を認めずに難航したが、最終的に移籍させている。


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