埼京線
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前者はJR東日本ホームページの時刻表[4]などに、後者は同ホームページの列車混雑状況[5]などに見受けられ、統一されていない。本項においても、南北による表記と上下による表記が混在する場合があるが、「南行」と「上り」(大崎方面)、「北行」と「下り」(大宮方面)はそれぞれ同じ方向を表す。
歴史埼京線開業以前の赤羽線区間の歴史については「赤羽線#歴史」を、大崎駅 - 池袋駅間の歴史については「山手線#山手貨物線」を、大崎駅 - 池袋駅間の旅客化の歴史については「湘南新宿ライン#歴史」を参照

本節では、埼京線が計画された当時からの歴史を記述する。(本節全体の出典:[6][7][8][9]
通勤新線建設計画「通勤五方面作戦」も参照

1970年代当時の国鉄は、東京周辺の人口増加に対し輸送力が追いつかず、”通勤地獄”とも呼ばれラッシュ時の混雑緩和が急務となっていた。そこで、国鉄は通勤五方面作戦と総称される混雑緩和策を講じて、線路増や編成長増大などを行い、その一環として東北本線の赤羽駅 - 大宮駅間における客貨分離運転を行い、列車増発などで対応していった。しかし、その後の人口の外延化に伴い東北・高崎線の輸送量は増大し、さらなる輸送力の増強が求められた。

一方で、東北上越新幹線の建設工事は、運輸省(当時。現・国土交通省)から認可が下りた1971年昭和46年)10月1日から建設工事に着手することになった。当初、東北・上越新幹線の建設計画では赤羽 - 大宮間のうち埼玉県内を地下化とする予定であった。しかし1973年(昭和48年)3月10日、地下化によるトンネル建設案は地盤の問題を理由に難しいとされ、「通勤新線」[* 3]を併設した形での高架化案が運輸省を通じて埼玉県知事などに示された。この提案は、地元が高架化案を受け入れた場合の「見返り」としての提案でもあった。

だが、高架橋による新幹線の建設案は、当時東海道・山陽新幹線沿線での騒音問題が生じていたこともあり、既に起きていた沿線住民(戸田・浦和・与野3市と東京都北区)による強力な反対運動のさらなる活発化を招き、埼玉県は高架化の提案を拒否した(詳細は後述)。

その後の国鉄と地域との間の交渉の中で、国鉄側が東北・上越新幹線の騒音問題に対する措置をとることや、通勤新線の建設を正式に表明したことを受け、沿線の自治体がラッシュ緩和や通勤時の交通利便性の向上と「通勤新線」の快速の停車を国鉄に要望、住民側からも新線の期待が次第に高まったことから、沿線自治体も新線併設を条件に新幹線建設賛成に舵を切り、それらの要望などの具現化を盛り込んだ建設計画がようやく合意された。

国鉄は東北新幹線大宮駅 - 東京駅間の建設開始とともに「通勤新線」赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅 - 宮原駅間 (22.0km) の建設認可を1978年(昭和53年)11月に申請、同年12月に認可されて建設工事が開始された。
通勤新線の構想と実際の施設

当初、通勤新線は赤羽駅 - 宮原駅間を建設し、高崎線に乗り入れて新宿駅へ直通させる構想で、1985年の運輸政策審議会答申第7号でも宮原延伸が計画されていた。当時の地図付録の路線図などにも予定線が大宮から宮原に延びて記されている。

新たに建設される赤羽駅 - 大宮駅間は、赤羽台トンネルと地下の大宮駅付近を除き、全面高架で新幹線と一体となった構造で、中間には10駅を設置、当初から快速電車の運転を考慮して、2駅(戸田公園駅南与野駅)の外側に通過線を設けた1面4線とした。また、武蔵野線と接続駅となる武蔵浦和駅は、緩急接続ができるように2面4線の構造とした[* 4]

しかし、埼京線の車両基地用地として候補に挙がっていた武蔵浦和駅付近のロッテ浦和工場の敷地の用地買収が難航し、宮原駅周辺でも用地買収の面から反対運動が起こったため、将来用地の拡大が容易な南古谷駅付近に車両基地(川越電車区。現・川越車両センター)を建設することになり、同時に沿線人口が伸び続け、通勤路線として活発化が期待できるとして、当時非電化だった川越線を電化することになった[10]

よって、こちらの工事を優先する必要性に迫られ、大宮駅 - 宮原駅間の建設は中止となったが、大宮駅 - 日進駅間の高崎・川越線並走区間で川越線側にトンネル用地や合流用地がある。さらに、高崎線の大宮駅 - 宮原駅間も立ち退きがほぼ完了し、複々線化用地がほぼ確保されていた。

なお、当初の構想であった高崎線の池袋・新宿直通は、JR発足後に東北・山手貨物線を利用して実現し、のちの湘南新宿ラインへと発展している。これを受けて2000年の運輸政策審議会答申第18号からも計画が削除され、高崎線の複々線化用地も住居や駐車場などへの転用が始まっている[* 5]
埼京線開業

1985年(昭和60年)9月30日、ついに埼京線は開業の日を迎え、同時に川越線大宮駅 - 高麗川駅間も電化開業した。運転区間は池袋駅 - 川越駅間で、最短44分(通勤快速)で結び、それまで赤羽駅、大宮駅で乗り換えを含め69分かかっていた同区間の大幅な短縮効果は大きく、開業日のラッシュ時の乗車率は150%を記録した。一方で、混雑の激しかった京浜東北線は、埼京線に乗客が移行したことで、約30%減(浦和駅)[新聞 1]となり、埼玉県南部から都内への通勤の足が大きく改善された。

開業直後の使用車両は103系で、列車の運行形態は、平日朝夕ラッシュ時のみの通勤快速と平日昼間及び休日は終日の快速、各駅停車の3本立てで、通過運転を行う赤羽駅 - 大宮駅間では、通勤快速が武蔵浦和駅のみ停車、快速が戸田公園駅・武蔵浦和駅・与野本町駅とされた。順調なスタートを切ったと思われる埼京線であるが、開業初日には導入したPRC(自動制御装置)のシステム不具合が生じてダイヤ乱れのトラブルや、赤羽駅 - 大宮駅間を走行する103系電車の騒音問題、後年では、痴漢犯罪の多発が生じた(これらの詳細は後述)。

1986年3月3日には、山手貨物線へ乗り入れ、新宿駅まで運行区間を延伸、新宿駅の貨物発着線にホームを1面(現:1・2番線ホーム)と引上線1線を新設、朝夕ラッシュ時は全列車新宿発着として、山手線の混雑緩和と池袋駅 - 新宿駅間の輸送力増強を図った。この新宿延伸は埼京線開業当時から予定されていたもので、開業前の1980年(昭和55年)から、新宿区や地元商工団体が通勤新線の延長を国鉄に求めていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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