基本的人権
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これらが相互に区別して論じられることもあれば、同義的に使用されることもある[7]

法的には(実定法を越えた)自然権としての性格が強調されて用いられている場合と、憲法が保証する権利の同義語として理解される場合がある[8]。また、もっぱら国家権力からの自由について言う場合と、参政権社会権やさまざまな新しい人権を含めて用いられることもある[8][注 1]

人権保障には2つの考え方があるとされる[9]。その第一は、いわゆる自然権思想に立つもので、全ての人には国家から与えられたのではない人として生得する権利があり、憲法典における個人権の保障は、そのような自然的権利を確認するものとの考え方である[9]。広辞苑では、実定法上の権利のように恣意的に剥奪されたり制限されたりしない[10]と記述されている。その第二は、自然的権利の確認という考え方を排し、個人の権利を憲法典が創設的に保障しているとの考え方である[9]。18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し、法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となったとされ[7]、1814年のフランス憲法などがその例となっている[9]

歴史的には、人権が成文化されたのは1215年のマグナ・カルタにまで遡り、「生まれながらにして当然に人間としての権利を有する」という意味で国法上に初めて確認されたのは1776年のバージニア権利章典である[11][12]。基本的人権の概念は、18世紀の人権宣言にある前国家的な自然権という点を厳密に解すれば、それは自由権を意味する(最狭義の基本的人権観念)[7]。また、自由権をいかにして現実に保障するかという点に立ち至ると、参政権も基本的人権に観念されることとなる(狭義の基本的人権観念)[7]。上記のような狭義の基本的人権観念が18世紀から19世紀にかけての支配的な人権観念であった[7]。18世紀の人権宣言は、合理的に行為する完全な個人を措定するものであったが、19世紀末から20世紀にかけての困難な社会経済状態の中で、そのような措定を裏切るような事態が次第に明らかとなり、具体的な人間の状況に即して権利を考える傾向を生じ、いわゆる社会権も基本的人権に観念されるようになった(広義の基本的人権観念)[7]

最広義には、憲法が掲げる権利はすべて基本的人権と観念されることもある(最広義の基本的人権観念)[13]。しかし、自然権的発想を重視する立場からは、国家によってのみ創設することができるような権利は、これに含ませることができないと解されている[14]。日本の憲法学説でも、自然権的発想を重視する限り「基本的人権」(日本国憲法第11条)と「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)が同じ内容を持つものではありえないと解されており[14]、従来、一般には国家賠償請求権日本国憲法第17条)や刑事補償請求権日本国憲法第40条)については、「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)に含まれることはもちろんであるが、基本的人権を具体化または補充する権利として、基本的人権そのものとは区別されてきた[13]。「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)には、広く憲法改正の承認権や最高裁判所裁判官の国民審査権まで含まれるとする学説もある[15]。国によっては、憲法が国民に保障する自由及び権利については「基本権」(: Grundrechte)と呼んで区別されることがある[14]

近年の憲法学では「人権」よりも「憲法上の権利」という表現が使われることが多い[16]
人権思想の歴史
前史

近代的な人権保障の歴史は1215年のイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)にまで遡る[17]。マグナ・カルタはもともと封建貴族たちの要求に屈して国王ジョンがなした譲歩の約束文書にすぎず、それ自体は近代的な意味での人権宣言ではない[17]。しかし、エドワード・コーク卿がこれに近代的な解釈を施して「既得権の尊重」「代表なければ課税なし」「抵抗権」といった原理の根拠として援用したことから、マグナ・カルタは近代的人権宣言の古典としての意味を持つようになった[17]。マグナ・カルタは、1628年の権利請願、1679年の人身保護法、1689年の権利章典などとともに人権保障の象徴として広く思想的な影響を有し続けている[18]

また、16世紀の宗教改革を経て徐々に達成された信教の自由の確立は、やがて近世における人間精神の解放への一里塚となった[19]。中世ヨーロッパでは、人々は国家の公認した宗教以外のいかなる宗教の信仰も許されず、公認宗教を信仰しない者は異端者として処罰されたり、差別的な扱いを受けることが普通であった[19]。このような恣意的な制度に対して立ち上がった人々の戦いは、単に信教の自由の確立にとどまらず、近代における人間の精神の自由への自覚を生みだす役割を果たすこととなった[19]
17世紀?18世紀

市民階級の台頭を背景にグローティウスロックルソーなどにより生成発展された近代自然法論は、のちの人権宣言の形成に重要な役割を果たすこととなった[19]。例えば、ロックは生命、自由及び財産に対する権利を天賦の人権として主張するとともに、信教の自由についても国家は寛容であるべきことを主張している[20]

「天賦の権利」について実定化した最初の人権宣言は1776年バージニア権利章典である[21]。アメリカ植民地の人々は、印紙法に対する反対闘争以来、権利請願や権利章典などを援用することで自らの権利を主張しイギリス本国の圧制に抗していたが、アメリカ独立戦争に突入すると「イギリス人の権利」から進んで、自然法思想に基づく天賦の人権を主張するに至った[21]
バージニア権利章典第1条
人は生まれながらにして自由かつ独立であり、一定の生来の権利を有する。これらの権利は、人民が社会状態に入るにあたり、いかなる契約によっても、人民の子孫から奪うことのできないものである。かかる権利とは、財産を取得・所有し、幸福と安全とを追求する手段を伴って生命と自由を享受する権利である。

? バージニア権利章典[21]

アメリカで結実した自然法思想は、フランスの人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった[22]。フランス人権宣言では、人は生まれながらにして自由かつ平等であることを前提に、人身の自由、言論・出版の自由、財産権、抵抗権などの権利を列挙するとともに、同時に国民主権や権力分立の原則を不可分の原理と定めている[22]。人権思想はフランス革命の進行とともにいっそう高まり、1793年憲法では抵抗権の規定が不可欠の義務にまで高められたが、財産権については公共の必要性と正当な事前補償があれば制限し得る相対的なものとなった[23](ただし、1793年憲法は施行されることはなかった)。
19世紀

18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となった[7]


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