執政政府
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1802年8月2日(共和暦10年テルミドール14日)、ナポレオンを終身第一統領として承認するかを問う2度目の国民投票が行われ[3]、またもや99.8%の賛成票を獲得した[4][5]

ナポレオンは権力を強化するにつれて、アンシャン・レジームの手法を取り入れ、専政を始めた。旧王政のように、きわめて中央集権的かつ功利的な行政官僚体系を敷き、国立大学において権威主義的かつ煩瑣なスコラ学を講じるなど、再集権化を行い、国家機関・地方自治・司法制度・財政機関・金融・法典編纂・熟練労働力の伝承等に必要な財源を改組・集約化した。

ナポレオン治下のフランスは高度の安寧秩序を謳歌し、厚生水準が向上した。たびたび飢饉に悩み、光熱が不足していたパリでは、取引が盛んになって賃金が上がると同時に、食糧が安価かつ豊富になった。ジョゼフィーヌタリアン夫人、ジュリエット・レカミエらのサロンには、成金の豪華絢爛な顔ぶれが並んだ。

ナポレオンは国家機関を増強する中、エリート層に向けてレジオンドヌール勲章を創設し、コンコルダを締結し、間接税を復活するなど、反革命的にも見える政策も行うようになった。

ナポレオンは、政権の座にあってバンジャマン・コンスタンスタール夫人らひときわ発言力のある批評家を放逐することで、反対勢力をほとんど弾圧することができた。サン=ドマング出兵では共和国軍が壊滅し、かつての戦友ナポレオンに猜疑心を抱く軍首脳も絶えず続く戦争に嫌気がさして離散していったが、モローが王党派の陰謀に連座して亡命したのを最後に、ナポレオンの権威に対する大規模な挑戦はなくなった。

反対派の元老院議員や共和派の将軍らと対比して、フランス国民の多くは、粛清への恐れもあり、ナポレオンの権威に対して無批判であった。
アンギャン公事件

ナポレオンの政権基盤がなお脆弱であったことから、フランスの王党派は、ナポレオンを拉致・暗殺すること、アンギャン公ルイ・アントワーヌ・アンリに、ルイ18世を王位に頂くブルボン復古王政の端緒となるクーデターを指導するよう要請すること等を盛り込んだ陰謀を立てた。イギリスの小ピット政権は、この王党派の陰謀に100万ポンドを資金提供し、ジョルジュ・カドゥーダル(英語版)とジャン=シャルル・ピシュグリュ(英語版)将軍らの一味がイギリスからフランスへ帰国する際の輸送船(中にはジョン・ウェズリー・ライト(英語版)船長の艦船もあった)も提供した。1804年1月28日、ピシュグリュはナポレオン麾下の将軍の1人でかつての部下でもあるジャン・ヴィクトル・マリー・モローと面会した。翌日、Coursonと名乗るイギリスの密使が逮捕・拷問され、ピシュグリュ、モロー、カドゥーダルらが統領政府を転覆する陰謀を企てていることを自白した。フランス政府はカドゥーダルの使用人Louis Picotを逮捕・拷問し、この陰謀の詳細を捜査した。ジョアシャン・ミュラは、ピシュグリュ、モロー逮捕の翌月までの間、午後7時から翌午前6時までパリの城門を閉鎖するよう命じた。

一連の検挙で、王党派の陰謀は、ブルボン家の御曹司でブルボン復古王政では王位継承者ともなりうるアンギャン公の積極的関与を予定したものであることが判明した。アンギャン公は当時フランスのエミグレとしてバーデン選帝侯国はフランス国境付近のエッテンハイムの借家に暮らしていたが、ナポレオン政権の外相タレーランと警察相フーシェらの「刺客はどこにでもいる」との警告もあってか、第一統領ナポレオンはアンギャン公を処刑すべきとの政治判断をするに至り、200人のフランス兵がバーデンの邸宅を包囲してアンギャン公を拉致した。

フランスへの送還中、アンギャン公は「ボナパルトもフランス国民も断じて許さない、折りさえあれば彼らに対して戦争を仕掛けてやりたい」と述べたという[6]

3度にわたる暗殺の陰謀に加えてストラスブールでも暴動の予備があり、ナポレオンも頭を抱えていた。ドイツの邸宅での押収物や警察当局からの資料に基づき、アンギャン公は謀反を計画した罪で告発されて軍法会議にかけられ、ヴァンセンヌで大佐7人からなる法廷の審理を受けるよう命じられた。

アンギャン公は法廷での尋問中イギリスから年に4,200ポンドの援助を受けていることを認めたが、これについて「フランス国家ではなく当家に敵対する現政権と戦うためである」と述べた。さらに「イギリス軍に出仕を申し入れたが色よい返事を得られず、さしあたり自らの出番を作るためライン川周辺で待機する必要があり、実際そうしていただけである」とも述べた[7]

アンギャン公は1791年10月6日の法律第2条違反、すなわち「内戦により朝憲を紊乱し、市民を武装させて他の市民又は合法的権威に敵対させることを目的とする陰謀を首謀又は共謀した者は、死刑に処する」に該当するとして有罪とされ、ヴァンセンヌ城の壕の中で処刑された。

事件はフランス国内ではほとんど波紋を呼ばなかったが、国外では波乱を呼び、ナポレオンに対して好意的ないし中立的だった者も多くは敵対的になっていった。ナポレオンは処刑を許可した重責を生涯背負い続けることとなったが、自分は結局正しいことをしたのだと信じ続けていた。
第一共和政の終焉

ナポレオン暗殺の陰謀は後を絶たず、ナポレオンの死後すぐに共和政が崩壊してブルボン復古王政、軍事独裁ないしジャコバン派独裁が再来するのではないかという懸念が生じ始めた。フーシェはナポレオンに、世代交代を確固たるものにし死後の政変の芽を摘むため、世襲称号を創設することを提案した。ナポレオンは当初そのような称号を認めることをためらったが、説得された末、その権力が神権によらず、人民の委託に基づくとすることを条件としてこれを認めた。

1804年5月18日、フランスを帝政に移行させナポレオンを皇帝とする議案が元老院を通過し、1804年12月2日、戴冠式が挙行され、ナポレオンはフランス皇帝に即位しフランス第一帝政が成立した。
統領一覧

臨時統領(1799年11月10日 ? 12月12日)は以下の通り。

ナポレオン・ボナパルト

エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス

ロジェ・デュコ

統領政府(1799年12月12日 ? 1804年5月18日)の統領は以下の通り。

第一統領:ナポレオン・ボナパルト

第二統領:ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス

第三統領:シャルル=フランソワ・ルブラン

閣僚一覧

統領政府の閣僚は以下の通り[8]

閣僚就任辞任氏名
外相1799年11月11日1799年11月22日シャルル=フレデリック・ラインハルト(英語版)
1799年11月22日1804年5月18日シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
法相1799年11月11日1799年12月25日ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス
1799年12月25日1802年9月14日アンドレ・ジョゼフ・アブリアル(英語版)
1802年9月14日1804年5月18日クロード・アンブロワーズ・レニエ(英語版)
陸相1799年11月11日1800年4月2日ルイ=アレクサンドル・ベルティエ
1800年4月2日1800年10月8日ラザール・カルノー
1800年10月8日1804年5月18日ルイ=アレクサンドル・ベルティエ
財務相1799年11月11日1804年5月18日マルタン=ミシェル=シャルル・ゴーダン(英語版)
警察相1799年11月11日1804年5月18日ジョゼフ・フーシェ
内相1799年11月12日1799年12月25日ピエール=シモン・ラプラス
1799年12月25日1801年1月21日リュシアン・ボナパルト
1801年1月21日1804年5月18日ジャン=アントワーヌ・シャプタル(英語版)
海軍・植民地相1799年11月12日1799年11月22日マルク=アントワーヌ・ブールドン・ド・ヴァートリー(英語版)
1799年11月22日1801年10月3日ピエール=アレクサンドル=ローラン・フォーフェ(英語版)
1801年10月3日1804年5月18日ドニ・デクレ(英語版)
国務長官1799年12月25日1804年5月18日ユーグ=ベルナール・マレ
国庫相1801年9月27日1804年5月18日フランソワ・バルベ=マルボア(英語版)
軍政相1802年3月12日1804年5月18日ジャン=フランソワ・エメ・デジャン(英語版)

脚注^ Robert B. Holtman, The Napoleonic Revolution (Baton Rouge: Louisiana State University Press, 1981), 31.
^ Antoine-Claire Thibaudeau, "Creation of the Consular Government," Napoleon: Symbol for an Age, A Brief History with Documents, ed. Rafe Blaufarb (New York: Bedford/St. Martin’s, 2008), 54?56.
^ “ ⇒From Life Consulship to the hereditary Empire (1802-1804)”. Napoleon.org. 2012年1月9日閲覧。
^ Frank McLynn (2002). Napoleon. Arcade Publishing. pp. 253?254. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-1-55970-631-5. https://books.google.co.jp/books?id=U_LlgpdR3BQC&pg=PA253&lpg=PA253&dq=August+1802+referendum&ct=result&redir_esc=y&hl=ja#PPA254,M1 


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