埴谷雄高
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大江・中野・埴谷は「戦争はダメ」「平和を守れ」と主張するが、戦争になれば、それまでの主張は忘れて、戦争を革命の絶好の好機と考え方を変えるに決まっている、と評している[8]。しかし、埴谷の死後の『群像』の追悼特集で、吉本は埴谷を、日本史上稀有の文学者であり思想家であったと追悼している。

池田晶子は埴谷の作品の哲学的センスを哲学専門家の立場から大きく認めている。
逸話

結核に罹患していたために、徴兵を免れた。

話をするときに手に持っているもので机やテーブルを叩く癖があり、メガネを200個以上も壊したという。

武蔵野市吉祥寺の自宅の両隣と向かいに家作を持っていた。転向による釈放後、息子がまともに就職出来ないであろうと思った母親が購入したもので、戦前の埴谷は、一時経済新聞への勤務歴はあったものの、主にこの家作からの家賃や売却益で生活していた。大岡昇平との対談集『二つの同時代史』によると、結核が発覚した1950年までにこれらは全て売り払ったという。

腸結核が発覚した1950年から約4年間、生活のために自宅で賄い付き下宿を営んでいた。発覚時、埴谷は夫人の勧めにもかかわらず療養所への入院を拒み、自宅を売って転地療養すると主張していた。当時『近代文学』の編集を手伝っていた平田次三郎がそれを知り、埴谷に強く勧めたもので、下宿生には一橋大学の学生が多かったという。翻訳家の常盤新平も埴谷家に寄宿した一人である。

北杜夫は1960年代に埴谷の自宅を訪れた際、ラジオのチューンをさまざまに調整しては各球場の経過を聴いていたプロ野球好きの埴谷の姿をエッセイに書いている。北は無名時代の自分を認めてくれた埴谷を生涯にわたって尊敬しており、ときどき埴谷の自宅に遊びに行ったが、ある日埴谷が不在で、埴谷夫人に「主人はいま駅前のパチンコにいってますよ」といわれ驚き、「埴谷さんの難解高尚な文学のイメージとパチンコがどうしても噛み合わない」と思いながらそのパチンコ屋にむかった。「埴谷さんのような類稀なる大文学者は不器用で、パチンコではすってばかりいるだろう」と思いきや埴谷の席にいくと、大当たりの連続でパチンコ玉の箱が何杯も積み上げられており、北は再び驚いた、というエピソードも書いている。埴谷は株式取引にも非常に詳しく、北が株に手を出して損をしたときに適切なアドバイスをしてくれたり、また埴谷が北の家に出向いたとき、埴谷の多面にわたる博識に感心した高校生の北の娘の斎藤由香が、高卒で終わるのではなく大学に進学し勉強することをその晩に決意し北を感激させたというようなこともあった[9]。このような博識で多趣味な人物であったことも、埴谷が多くの作家や編集者に慕われる理由であった。なお北は埴谷と二冊の対談集を出している。

ハンガリー産のトカイワイン、特に「アスー3プットニョシュ」を愛飲していた。かなりの酒豪で、晩年になっても明け方まで都内を飲み歩くことがしばしばだった。

武田泰淳大岡昇平平野謙井上光晴小川国夫島田雅彦らとの親交を中心に、文壇全体と広い交友があった。埴谷は大岡昇平との対談で、吉本隆明を「警察のスパイ」と批判したことがある。また、吉本隆明と、コム・デ・ギャルソン論争で激しく対決した。これは1982年の反核アピールを吉本が批判したところに端を発したものだが、同じ頃、埴谷に日頃批判的な中上健次が早朝埴谷に電話をかけてきて「お前を殺してやる」と言ったという。これに対し普段は温厚な埴谷が「お前になんか殺されてたまるか!」と電話口で激怒すると、その中上の電話は不意に切れたという[10]

他の作家や編集者から「埴谷先生」と呼ばれると、「私は人にものを教えている訳ではありませんから、先生ではありません。『埴谷さん』でいいです」と常に答えていたという。

文庫本は発表後1世紀以上を経た作品のみにすべきとの考えから、自分の作品は文庫化しないと公言していた。事実、生前には文庫本は一切出される事はなく、没後『死靈』と『埴谷雄高評論選』が文庫化された。

埴谷は妻の死後に武蔵境の自宅を@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}講談社の子会社・音羽建設[要検証ノート]へ売却。その売却益で生計をたてていた。そして「群像」へ「死霊」の原稿を書き告ぐ約束でそのまま武蔵境の自宅に住み続けた。

18歳の時、演劇をしていた頃、素人女優に一目惚れされて「惚れたんなら来ればいいだろう」の一言で結婚した。のちに「女房よりいい女がたくさんいる」ことに気づき、後悔した時に日本共産党に入ったという[11]。のち、40歳を過ぎてから結核が治ったので、おくてながら遊蕩を始めたという[12]

「自分でいろんなことを考える決着がつくまでは子供は作らない」との思いから、戦前に妻が3回ほど妊娠した際も、出産を望まなかった。堕胎が犯罪とされていた時代だが妻は医者を見付けて堕胎し、その後、子宮の不調から戦時中に子宮を摘出したため、その後も子をなすことはなかった。妻は子供を産まなかったのを恨み、埴谷も「女房は非常に気の毒だ」と振り返ったが、戦後になって妻は「子供がなくてよかった」と言ったこともあるという[13]

著書
単著

フランドル画家論抄』洸林堂書房、1944(宇田川嘉彦名義)

ロダン』洸林堂書店、1942(作品編著、宇田川嘉彦名義)


『死靈』第1 真善美社 1948


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