埴谷雄高
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埴谷を尊敬する著名な支持者に、北杜夫鶴見俊輔立花隆[5]がいた。立花は著書で、60年安保世代の大学生にとって埴谷は神様のような存在だったと述懐しており、そのため初対面時には非常に緊張したとのことである。鶴見は埴谷の没後に作家論を著した。

埴谷は、新人作家の発見や紹介推薦に優れた力を発揮したことで知られる[6]。無名時代の安部公房の才能を、石川淳とともに見出して文壇に推したのは埴谷である。それ以外にも、高橋和巳辻邦生倉橋由美子北杜夫加賀乙彦などの新人作家の才能を発見して育成している。

一般的には批評や創作自体の評価よりも(そもそも創作自体が非常に寡作であるが)「『死靈』の作者」との認識が強く、また実際に『死靈』自体の評価は非常に高いのだが、それ以外は今日あまり顧みられていないのが現状である。しかし往時は新左翼系の読者までも多く抱え、独自の視点から(例えば鶴見俊輔は埴谷を「国家の形と見あう一定の型」からはずれている、と評した)の提言に対する評価は高かった。

三島由紀夫は「埴谷雄高氏は戦後の日本の夜を完全に支配した」[6]と、埴谷の文学に賛辞をおくっている。

蓮實重彦は、「学生運動ほか」をめぐる座談で、埴谷について結局のところ人間関係しか残らない程度の作業しかしておらず、「なにが偉いのかまったくわからない」と埴谷を断じた。なおこの座談の参加者であった上野ミ志スガ秀実もおおむね蓮實の批判に同意している[7]。これに対して立花隆は、埴谷に対する評価のヒドさを批判するとともに、蓮實が鶴見俊輔をバカ扱いしていることも、同時に批判した。

江藤淳は、埴谷の「死霊」を、「読んでいてところどころ眠くなる作品」として、埴谷の存在を「昭和10年代左翼の延長」としてとらえるべきだ、と否定的見解を示している。

柄谷行人は、埴谷の思考の徹底性を認めつつも、全体的には埴谷の存在に批判的な論考を多く記している。

全共闘から右派リバタリアンに転向した笠井潔は、埴谷についてカントの影響を受けたと自称しているが実際は埴谷は獄中で徹底したヘーゲル主義者に転じたと考えられるとしている。埴谷の思考スタイルは、20世紀的現実の制約を受けていないぶん、「マルクス主義よりさらに危険なもの」であると笠井はいう。 

吉本隆明は、埴谷の文学作品と政治理論の双方を非常に高く評価し、「死霊」第五章を、「死というものを瞬間的にでなく、段階的・思索的にとらえた日本近代文学史上はじめての作品」とし、またその政治理論についても「革命家は行動を起こさなければいけないという観念論ではなく、未来のビジョンを示せばよいということを示したコペルニクス的回転である」とした。しかし、吉本・埴谷の両者は、1980年代に関係が断絶してしまう。吉本は、大江健三郎中野孝次・晩年の埴谷雄高など左翼はずっと「戦争はダメ」「自分たちは平和主義者」と主張してきたが、それは「戦争自体がダメ」という観点とはまるで違い、そのことでいえば大江・中野・埴谷は全て落第と評価している。大江・中野・埴谷がやった反核運動で主張したことは、アメリカの核はダメだが、ソ連の核はオーケーだという考え方だという。大江・中野・埴谷は「戦争はダメ」「平和を守れ」と主張するが、戦争になれば、それまでの主張は忘れて、戦争を革命の絶好の好機と考え方を変えるに決まっている、と評している[8]。しかし、埴谷の死後の『群像』の追悼特集で、吉本は埴谷を、日本史上稀有の文学者であり思想家であったと追悼している。

池田晶子は埴谷の作品の哲学的センスを哲学専門家の立場から大きく認めている。
逸話

結核に罹患していたために、徴兵を免れた。

話をするときに手に持っているもので机やテーブルを叩く癖があり、メガネを200個以上も壊したという。

武蔵野市吉祥寺の自宅の両隣と向かいに家作を持っていた。転向による釈放後、息子がまともに就職出来ないであろうと思った母親が購入したもので、戦前の埴谷は、一時経済新聞への勤務歴はあったものの、主にこの家作からの家賃や売却益で生活していた。大岡昇平との対談集『二つの同時代史』によると、結核が発覚した1950年までにこれらは全て売り払ったという。

腸結核が発覚した1950年から約4年間、生活のために自宅で賄い付き下宿を営んでいた。発覚時、埴谷は夫人の勧めにもかかわらず療養所への入院を拒み、自宅を売って転地療養すると主張していた。当時『近代文学』の編集を手伝っていた平田次三郎がそれを知り、埴谷に強く勧めたもので、下宿生には一橋大学の学生が多かったという。翻訳家の常盤新平も埴谷家に寄宿した一人である。

北杜夫は1960年代に埴谷の自宅を訪れた際、ラジオのチューンをさまざまに調整しては各球場の経過を聴いていたプロ野球好きの埴谷の姿をエッセイに書いている。北は無名時代の自分を認めてくれた埴谷を生涯にわたって尊敬しており、ときどき埴谷の自宅に遊びに行ったが、ある日埴谷が不在で、埴谷夫人に「主人はいま駅前のパチンコにいってますよ」といわれ驚き、「埴谷さんの難解高尚な文学のイメージとパチンコがどうしても噛み合わない」と思いながらそのパチンコ屋にむかった。「埴谷さんのような類稀なる大文学者は不器用で、パチンコではすってばかりいるだろう」と思いきや埴谷の席にいくと、大当たりの連続でパチンコ玉の箱が何杯も積み上げられており、北は再び驚いた、というエピソードも書いている。埴谷は株式取引にも非常に詳しく、北が株に手を出して損をしたときに適切なアドバイスをしてくれたり、また埴谷が北の家に出向いたとき、埴谷の多面にわたる博識に感心した高校生の北の娘の斎藤由香が、高卒で終わるのではなく大学に進学し勉強することをその晩に決意し北を感激させたというようなこともあった[9]


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