埴谷 雄高
(はにや ゆたか)
河出書房新社『文藝』第2巻第10号(1963)より
誕生般若 豊(はんにゃ ゆたか)
1909年12月19日
日本・台湾新竹
死没 (1997-02-19) 1997年2月19日(87歳没)
日本・東京都武蔵野市吉祥寺
墓地青山墓地
職業評論家、作家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴日本大学中退
活動期間1939年 - 1997年
主題小説、評論
文学活動第一次戦後派
代表作『不合理ゆえに吾信ず』(1950年)
『虚空』(1960年)
『闇のなかの黒い馬』(1970年)
『死靈』(しれい)(1945-95年-死去直前、未完)
主な受賞歴谷崎潤一郎賞(1970年)
日本文学大賞(1976年)
藤村記念歴程賞(1990年)
デビュー作『不合理ゆえに吾信ず』(1950年)
配偶者あり
影響を受けたもの
シュティルナー
ドストエフスキー
カント
アナキズム
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埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年(明治42年)12月19日 - 1997年(平成9年)2月19日)は、日本の政治・思想評論家、小説家。本名般若 豊(はんにゃ ゆたか)。
共産党に入党し、検挙された。カント、ドストエフスキーに影響され、意識と存在の追究が文学の基調となる。戦後、「近代文学」創刊に参加。作品に『死霊』(1946年?未完)、『虚空』(1960年)などがある。 台湾の新竹に生まれる。子供の頃から身体が弱く、常に死を身近に感じていたという。子供心に台湾において「支配者としての日本人」を強く意識し、罪悪感を覚えていた。 青年期に思想家マックス・シュティルナー[1]の主著『唯一者とその所有』の影響を受け、個人主義的アナキズムに強いシンパシーを抱きつつ、ウラジーミル・レーニンの著作『国家と革命』に述べられた国家の消滅に一縷の望みを託し、マルクス主義に接近、日本共産党に入党し、もっぱら地下活動(農民団体「全農全会派
来歴・人物
獄中ではカント、ドストエフスキーから圧倒的な影響を受けたという(ロシア文学については早くから影響を受け思索を強めていたものの、この時期を経てドストエフスキーを第一に挙げるようになり、実際に多くのドストエフスキー論を著している)。出獄後は経済雑誌の編集に携わり、敗戦を迎えた。元マルクス主義者、主義からの転向者と呼ばれることが多いが、シュティルナーの「創造的虚無」を自己の思考の根底に据えることは、終生変わることがなかった。
代表作は、存在の秘密や大宇宙について語りつくさんとし、第一章が『近代文学』創刊号(昭和20年12月30日付)に掲載された大長篇小説『死靈(しれい)』。全12章予定で未完作となったが幾度かの空白を挟み書き続け、死の直前まで第9章までを書き継いだ。ほぼ全編を、物語でなく観念的議論によって進行する世界文学史においても未曾有の形而上学的思弁小説であり、この一作で比類ない評価を受けた。他に埴谷自身が決定的な影響を受けたドストエフスキー論が著名。
埴谷の没した日には、有志によって「アンドロメダ忌」という記念会が催されている。
経歴
1909年(明治42年)12月19日(戸籍上は1910年(明治43年)1月1日)、台湾の新竹に生まれる[2]。本籍は福島県相馬郡小高町 (現・南相馬市 )[2]。父三郎の実家・般若家は代々奥州相馬氏に仕え、磐城国相馬中村藩士(剣道指南役)として明治維新を迎えた[2]。三郎は税務官吏として台湾に渡り、後台湾精糖株式会社に勤務した[2]。母方の曽祖父は薩摩藩の陽明学者の伊東猛右衛門[2]。父の転勤に伴い、幼少期を屏東で過ごす[2]。
1923年(大正12年)、東京に引っ越す。
1927年(昭和2年)3月、目白中学卒業。浦和高等学校 (旧制)の受験に失敗[3]。
1928年(昭和3年)、日本大学予科に編入学。
1930年(昭和5年)、日本大学を退学。
1931年(昭和6年)、日本共産党に入党。5月、逮捕を逃れて地下生活に入る。
1932年(昭和7年)3月、小石川原町の同志宅を訪ねたところ、張り込みの警官に逮捕される。50日余りを警視庁富坂署の留置場で過ごした後、5月に不敬罪および治安維持法違反によって起訴され、五・一五事件の日に豊多摩刑務所の拘置区へ移管され、未決囚として過ごす。独房でカントの『純粋理性批判』を読み、終生影響される。
1933年(昭和8年)、結核により病監へ移される。2月、「天皇制を認めるならマルクス主義を奉じてもよい」と検察から説得され、転向の上申書を提出し、11月、懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を受けて出所。上申書の内容は宇宙論であり、「太陽系の中で地球は最初に滅亡する。天皇制はそれ以前に滅亡するが、かなり長く続く」といったものだった(『無限の相のもとに』p.195)。
1941年(昭和16年)12月9日、予防拘禁法により特高に拘引され、年末まで豊多摩刑務所の予防拘禁所に拘留される。
1942年(昭和17年)、『ダニューブ』を翻訳。
1943年(昭和18年)、『偉大なる憤怒の書』を翻訳。
1946年(昭和21年)、山室静・平野謙・本多秋五・荒正人・佐々木基一・小田切秀雄とともに雑誌『近代文学』を創刊。畢生の大作『死靈』を連載開始。
1950年(昭和25年)、『不合理ゆえに吾信ず』を刊行。この年腸結核を患い、4年間の療養生活を送る。
1962年(昭和37年)、松田政男、山口健二、川仁宏らがを企画した自立学校において、谷川雁、吉本隆明、黒田寛一らとともに講師をつとめた。
1970年(昭和45年)、『闇のなかの黒い馬』を刊行。同作で、第6回谷崎潤一郎賞を受賞。
1971年(昭和46年)、『埴谷雄高作品集』を刊行。
1975年(昭和50年)、26年ぶりに『死靈』の第五章を発表。
1976年(昭和51年)、『死靈』全五章で日本文学大賞を受賞。
1981年(昭和56年)、『死靈』の第六章を発表。
1984年(昭和59年)、『死靈』の第七章を発表。
1986年(昭和61年)、『死靈』の第八章を発表。
1990年(平成2年)、これまでの業績により、藤村記念歴程賞を受賞。
1995年(平成7年)、『死靈』の第九章を発表。
1997年(平成9年)2月19日、脳梗塞のため[4]吉祥寺の自宅で逝去。