城館
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フランス語のシャトー(chateau、複数形chateaux)は日本語で城と訳されているが、荘園主によるものは城郭というよりはイギリスアイルランドにおけるマナー・ハウスに相当する。
古代リメスの最北端ハドリアヌスの長城帝都ローマのアウレリアヌス城壁

中近東を含めた地域では文明が興り都市が形成されるとその周囲に城壁(囲壁)を巡らしていたが、これは街の防護と戦時の拠点とするためだった。古代ギリシアでは、アクロポリスが作られ、その影響を受けたローマ人も戦時は、丘に立て籠もった。こうした様相は、当時文明の中心であった地中海周辺ばかりでなく、例えばガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』には険阻な地形に築かれたガリア人の都市を攻略する様子が度々登場するように広く見られるものである。首都ローマにも都市を守る城壁(囲壁)であるセルウィウス城壁が築かれていた。また仮設であるがローマ軍団は、進軍した先で十分な防御能力を備えた陣地を構築しており、これも城の一種と見ることもできる。恒久的な基地としてはティベリウス親衛隊の兵舎が挙げられる。

古代ローマの全盛期になると、もはや侵入できる外敵が存在しなくなり、都市機能の拡大に合わせて城壁を拡大していく必要がなくなった。ローマ帝国の防衛は国境線に築かれた防壁リメス並びに軍団及び補給物資を迅速に投射できるローマ街道等の輸送路の維持によって行われていた。しかしながらローマ帝国が衰退する4世紀頃以降、ゲルマン人侵入に対抗するため都市に城壁(囲壁)を築いて防衛する必要性が生じた[4]。ローマ帝国最盛期には城壁を持たなかった首都ローマも、全周約19km・高さ8m・厚さ3.5mのローマン・コンクリートで造られたアウレリアヌス城壁で防御されることになった。

城壁の素材は地域や時代・建築技術の程度によって様々で、日干しレンガや焼きレンガ・石・木・土など様々である。なお『ガリア戦記』に記されているガリアの城壁は木を主体としたものであり、北西ヨーロッパに本格的に石造建築が導入されるのはローマ化以降のことである。ローマ帝国の最盛期には強固なローマン・コンクリートで城壁(囲壁)や塔が造られるようになっていた。

このように、古代地中海世界を含めて、10世紀半ばまでのヨーロッパには厳密に「城」と呼べるものは存在せず[5]、主に都市や国を囲んで防御する城壁(囲壁)やが造られていた。
中世
10世紀 モット・アンド・ベーリー型の城モット・アンド・ベーリー城郭都市 チッタデッラ

西ローマ帝国の消滅後、古代ローマの建築技術は急速に失われ、土塁並びに木造の塔や柵が再び主流をなす時代が訪れた。10世紀、農業技術革命による生産力の上昇に伴い人口の増大と富の蓄積が始まると、それらを守るための施設を作り維持する社会的余裕も生まれた[5]。またカロリング朝フランク王国が衰退・分裂して中央の支配力が緩みだし、ノルマン人マジャール人の侵入が激しくなると、各地の領主は半ば自立して領地や居舘の防備を強化[5]しはじめた。当初は居館と附属施設の周りに直径50mほど[5]の屏を作り、濠を掘る程度だったが、10世紀の終わり頃から城と呼べる建築物を作るようになった。

多くは木造の簡易なもので、代表的な形態がモット・アンド・ベーリー型である。平地や丘陵地域の周辺の土を掘りだして、濠(空濠が多かった)を形成し、その土で小山と丘を盛り上げた。小山は粘土で固めてその頂上に木造または石造の塔(天守)を作った。この丘は『モット(Motte)』と呼ばれる[5]。また、丘の脇または周囲の附属地を木造の外壁で囲んで、貯蔵所や住居などの城の施設を作った。この土地は『ベイリー(Bailey)』と呼ばれた[5]。これは非常に簡単に建築でき、100人の労働者が20日働けば建設できたと考えられている[5]。このような城は、東西は現在のポーランドからイングランドフランス、南北はスカンディナビア半島からイタリア半島の南部までの広範囲に広がっており[5]、特にフランスで多く使われていた。

また、ほとんどの街も城壁を有する城郭都市となった。古い街の中には、古代ローマ時代の城壁を再建・補強して用いた場合もあった。
11世紀 - 12世紀 集中式城郭集中式城郭 クラック・デ・シュヴァリエ集中式城郭 ロンドン塔

11世紀には、天守や外壁が石造りの城が建築されるようになるが、石造りの城は建造に長期間(数年)かかり費用も高額になるため、王や大貴族による建設が中心であり、地方では木造の城も多く残っていた[6]。石壁には四角い塔が取り付けられ、壁を守る形になった。

12世紀の十字軍の時代には、中東におけるビザンティンアラブの技術を取り入れ、築城技術に革新的変化がみられた。集中式城郭と呼ばれる城は、モットの頂上に置かれた石造りの直方体の天守塔『キープ(Keep)』が、同心円状に配置された二重またはそれ以上の城壁で守られていた。内側に行く程、壁を高くして、外壁を破られても内側の防御が有利になるよう工夫されている場合もあった。石造りの城を攻撃するためには、地下道を掘って城壁を崩したり、攻城塔や破城槌を使う従前の方法だけでなく、12世紀後半には十字軍が中東から学んだカタパルト (投石機)が使われるようになる[5]。投石機は50kgの石を200m余り飛ばすことが出来るものもあり、14世紀末に大砲にその役が取って代わられるまで城攻めの中心的兵器であった[5]。この投石機より飛来する石弾の衝撃を逸し吸収するため、直方体の塔は多角形を経て円筒形になり、また壁の厚みも増していった[5]。代表的なものにクラク・デ・シュバリエ城、ガイヤール城がある。
13世紀 カーテンウォール式城郭カーテンウォール式城郭 ビューマリス城

カタパルト (投石機)と並んで弓矢による攻撃技術も発展したが、城に立て籠もった防御側の抵抗手段は塔の上から石や熱した油を落とす程度[5]のものであった。12世紀後半になり、塔や城壁に矢狭間を設けてクロスボウを用いて反撃を行う[5]ようになった。城壁には壁面から突出する半円形の塔(側防塔)を配し、そこに矢狭間を設けることで城壁に取り付く敵兵に左右から射掛けることが可能となった[5]。こうして城の軍事的機能の中心は天守塔(キープ)から側防塔を配した城壁に移行していった。ついには、城とは強固な城門(ゲートハウス)と側防塔を配した城壁そのものとなり、城壁に内接する形で居住スペースなどの建物が配置された[5]。この様式の城(城壁)のことをカーテンウォール式城郭と呼ぶ。

ここに至り天守塔(キープ)の軍事的意味は消滅し、強固な城門であるゲートハウスがその役目を担うことになった。だが、城主たちは天守塔の持つ支配と権力の象徴性を重視し天守塔を建てることに固執した場合もあった[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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