坪内逍遥
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1889年(明治22年)に徳富蘇峰の依頼で『国民之友』に「細君」を発表して後は小説執筆を断ち、1890年(明治23年)からシェイクスピアと近松門左衛門の本格的な研究に着手。1891年(明治24年)、雑誌『早稲田文学』を創刊する。1897年(明治30年)前後に戯曲として新歌舞伎桐一葉』『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』『牧の方』などを書き、演劇の近代化に果たした役割も大きい。1906年(明治39年)、島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなった。雑誌『早稲田文学』の成立にも貢献した。1913年大正2年)以降にも戯曲『役の行者』『名残の星月夜』『法難』などを執筆する。

『役の行者』は1913年に完成し、出版する予定となっていたが、島村抱月と松井須磨子の恋愛事件があり、作中の行者、その弟子の広足、女魔神の関係が、逍遥・抱月・須磨子の関係を彷彿させると考えて急遽、出版を中止した。1916年にこの改訂作『女魔神』を『新演芸』誌に発表し、翌年『役の行者』の題で出版した。続いて1922年に再改訂作『行者と女魔』を発表。初演は1924年に、初稿によって、築地小劇場で最初の創作劇として上演され、高い世評を得た。その後も初稿および改訂版により上演が行われている。また同じ題材で、挿絵も自身の手による絵巻物『神変大菩薩伝』を1932年(昭和7年)に発表した。1920年には『役の行者』は吉江喬松によって「レルミット」(l'Ermite)の題でフランス語訳されて出版、詩人アンリィ・ド・レニェらによって賞賛を得た[5]

また、1909年『ハムレット』に始まり1928年『詩編其二』に至るまで独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行した。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館は、逍遙の古稀とシェイクスピア全訳の偉業を記念して創設されたものである。また、完訳記念公演として築地小劇場が『真夏の夜の夢』を帝国劇場で上演した[6]

早稲田大学の講義は続けていたが、1927年(昭和2年)7月、「老齢任に堪えず」として総長に辞意を伝え、同年12月末、『リア王』の講義が終了するのを機会に教壇から退いた[7]

1933年(昭和8年)には新劇、新劇場が製作する『源氏物語』に顧問の1人として名を連ねたが、劇は上演直前に中止命令を受けている[8]

晩年は静岡県熱海市に建てた双柿舎に移り住み、訪ねて来るのは河竹繁俊くらいであったという[9]。町立熱海図書館(現・熱海市立図書館)の設置に協力しており、この図書館は「逍遥先生記念町立熱海図書館」「逍遙先生記念市立熱海図書館」を名乗っていた時期もあった(1936年7月より1944年8月まで)[10]。最後までシェイクスピア全集の訳文改訂に取り組み、『新修シェークスピア全集』刊行とほぼ同時に逝去した。

1935年2月28日、感冒に気管支カタルを併発し、双柿舎にて死去。享年77。戒名は双柿院始終逍遙居士[11]
家族・親族

逍遥の祖母は、尾張藩士俳人竹村鶴叟の妹リオである[12]。舞踊家の西川嘉義は竹村鶴叟の孫であるので親族。西川嘉義が自殺して悲しんだ逍遥は、1922年(大正11年)坪内逍遥の撰文による記念碑を八事興正寺に建てた[13]。その中で、逍遥は次のように嘉義の事を評している。舞踊妙手西川嘉義之碑舞踊の名師、古来其人夥し。然れども自ら打扮して演舞し、其妙技克く他をして恍惚たらしむる者多からず。風貌の秀と芸の品位と技の洗練とを併せ備へざれば能はざればなり。織田嘉義の如きは、其多からざる者の瑞一か ? 「西川嘉義碑(八事興正寺)」坪内雄蔵(逍遥)碑文(抜粋)[14]

妻セン(加藤セン子)は東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓の花紫で、当時学生であった逍遙が数年間通いつめた後、1886年(明治19年)に結婚した。結婚する際には、元西条藩士の鵜飼常親の養女となっている。松本清張はこれを題材にした『文豪』を書いている。2人には子がなく、逍遙は兄・義衛(1850年?1924年)の三男・士行を7歳のときに養子に迎えたが、後年士行の女性問題が原因で養子縁組を解消している。逍遥は幼少期に、この兄から文学的な影響を受けている。また写真家・能笛家の鹿嶋清兵衛とその後妻・ゑつの間にできた長女・くにを6歳の時に養女に迎えている。このくにの回想記『父逍遥の背中』(小西聖一編、中央公論社 1994年、中公文庫 1997年)には晩年の逍遥の様子が詳しく綴られている。甥の坪内鋭雄も早稲田大学を卒業後に作家となったが、日露戦争で戦死した。
主な作品文化人シリーズ切手(第一次)
評論


小説神髄』1885年(明治18年)

小説


一読三嘆 当世書生気質』1885年(明治18年)

『未来の夢』1888年

『妹と背鏡』1889年

『細君』1889年(明治22年)

戯曲


桐一葉』1894年(明治27年)

『牧の方』1896年(明治29年)

役の行者』1916年(大正5年)

楽劇


『新曲浦島』1904年(明治37年)

堕ちたる天女』1913年 

研究


『シェークスピア研究栞』(『沙翁全集』40巻)1928年(昭和3年)

イプセン研究』(河竹繁俊編)1948年(昭和23年)

翻訳


シェイクスピア全集の翻訳[注釈 2]

沙翁全集』全40冊、第一編(1909年(明治42年)12月)のみ冨山房と早稲田大学出版部との共同出版、第二編以降は早稲田大学出版部の単独出版。第40編は著述で『シェークスピヤ研究栞』(1928年(昭和3年)12月刊行)当初第23編迄は『沙翁傑作集』といい、第24編より『沙翁全集』と改称、以後最初の分も『沙翁全集』と改称している。

『新修シェークスピヤ全集』全20函(全40冊、1函に2冊収納)中央公論社。上記早大出版部本の改訂であるが『オセロー』などはほとんど新稿といえるほど面目を新たにしている。(1933年(昭和8年)9月より1935年(昭和10年)5月迄配本)以後この版を底本として戦後に創元社(全1冊)、新樹社(分冊)等から新版が出されている。中央公論社版は誤植が目立ち、付録月報の『沙翁復興』には正誤表が掲載されている号がある。


書簡集


逍遙新集『坪内逍遙書簡集』全6巻、早稲田大学出版部、2013年(平成25年)、ISBN 9784657138002

作品集


『逍遙選集』全12巻、別冊3巻、春陽堂、1926年(昭和2年)-1927年(昭和3年) 編集者は無記名であるが坪内逍遙自選。明治24年以前の著作は旧悪全書だとして収録しない方針であったが、出版社などの要求により別冊として収録。

『逍遙選集』全12巻、別冊5巻、第一書房、1977年(昭和52年)-1978年(昭和53年) 春陽堂版の復刊であると同時にそれに漏れた著作を別冊4巻、5巻に収録。事実上の全集。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『逍遥選集』別冊第2巻(春陽堂1927年)p.4-5に載せられた逍遥の回想によると、学生時代の明治13年(1880年)の夏休みに翻訳した。全体の6-7割が逍遥、3-4割が高田早苗の手になる。また挿入された漢詩の一部は天野為之による。柳田泉『明治初期翻訳文学の研究』(春秋社1961年)pp.25-26によると明治14年に高田早苗によって『春江奇縁』の題で版権届が出されているが、明治17年になってようやく『春窓綺話』と改題の上出版された。
^ 夏目漱石は逍遙の「ハムレット」翻訳劇上演(1911年)を観て「沙翁劇は其劇の根本性質として、日本語の翻訳を許さぬものである」「博士はたゞ忠実なる 沙翁の翻訳者として任ずる代わりに、公演を断念するか、又は公演を遂行するために、不忠実なる沙翁の翻案者となるか、二つのうち一つを選ぶべきであつた」と厳しく批判した。理由は「沙翁は詩人である、詩人の言葉は常識以上の天地を駆け回つてゐる」 「要するに沙翁劇のセリフは能とか謡とかの様な別格の音調によつて初めて、興味を支持されべきであると極めて懸らなければならない」(「坪内博士と『ハムレツト』」『漱石全集第16巻』岩波書店所収)。

出典^ 東京専門学校時代の学生 ? 早稲田ウィークリー
^ 大村弘毅『人物叢書 新装版 坪内逍遥』吉川弘文館、1987年、4頁。


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