軍記物『太平記』流布本の内容があたかも史実であるかのように人口に膾炙したため、近世、楠木正成(楠公)崇拝の気風が高まる中では、清忠は「忠臣」(という創作がしばしば行われた)楠公を死地に追いやった佞臣として筆誅が加えられることとなった。
安積澹泊の『大日本史』論賛は、清忠について、「一言斃二良将一、国事不レ可レ為。孔子悪三利口之覆二邦家一、正為二此輩一也」(讒言によって名将が死ぬ、これでは国政がうまくいかないのも当たり前だろう。孔子は「口先だけの人物が国家を破滅させてしまうのが憎い」と言ったが、まさにそのような輩だ)と厳しく非難している。
小説家の司馬遼太郎は「この逸話は昭和前期の統帥権干犯問題(統帥権も参照)において、軍部が独立すべき理由の先例として用いられたのではないだろうか」と、史料による検証なく推測した[12]。 21世紀現在の研究では、坊門清忠ら建武政権・南朝の蔵人(秘書官)は、不安定な南朝を文書行政の実務面で支えて安定させた裏方として、一定の高評価を受けている[13]。 かつては後醍醐天皇が理想論を追求した急進的に過ぎる人物だという誤解があったが、史料によって前後の時代との人材・政策を比較した結果、21世紀現在は、むしろ多くの面で後醍醐天皇は実務・安定志向だったという説が主流になっている[14]。文書実務に当たる蔵人についても、2002年から2010年にかけて出版された、東京大学史料編纂所編『花押かがみ』南北朝時代(吉川弘文館)によって、綸旨(天皇の命令書)の奉者(文書発行者)の花押=サインを照合することで、後醍醐天皇の文書行政に関わった官吏の出身を明らかにした結果、坊門家を含めほとんどが父の後宇多天皇の人材を引き継いでおり、これによって人材プールの安定化を図っていたことが判明した[14]。 東京大学史料編纂所の杉山巖
史料による再評価
※ 日付=旧暦
和暦西暦月日事柄
弘安6年?1283年?生誕。
正中元年1324年10月29日右中弁に任官。時に正四位下(『弁官補任