坊ノ岬沖海戦
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護衛機があればサイパンまで近接できる。せめていまサイパンを守りおおせば、しばらくゆとりが出来て、その間の作戦を練ることができる」と主張し、軍令部への取り次ぎを依頼した[20]。大本営海軍部(軍令部)はサイパン島奪還作戦を具体的に検討し、「海軍は特攻隊の考え方でやる」という方針で決死の思いであったという[22]。「サイパンをとられて(本土空襲がはじまれば)、大和と武蔵を残して何になる」という神や[13]、大本営の熱意に対し、連合艦隊はサイパン島奪還作戦に消極的だった[23]

6月下旬、サイパン島奪還作戦は中止[24]。神は高木にサイパン島奪還作戦と大和型戦艦の突入が水泡に帰った無念を訴え「嶋田繁太郎軍令部総長と伊藤整一軍令部次長に決断が出来ないのは終生の恨みだ」「たとえ失敗しても、大和と武蔵を惜しんで後でどこに使い道があるというのか」「その代わり海軍はこれでお終いですが」「(仮にサイパン島奪還が成功しても)得られる時間的余裕は六ヶ月」と発言している[12][13]

7月17日、嶋田繁太郎海軍大臣・軍令部総長は海軍大臣職を野村直邦大将に譲った[25]。翌7月18日に東條内閣は総辞職に追い込まれ[25]、7月22日に小磯内閣小磯國昭内閣総理大臣、重光葵外務大臣、杉山元陸軍大臣米内光政海軍大臣など)が成立した[25][26]。米内は野村を軍事参議官に、井上成美中将を海軍次官に、多田武雄中将を軍務局長に任命した[26]。軍令部総長も8月2日より及川古志郎大将(元海軍大臣)となった[26]

7月13日附で海軍省から連合艦隊参謀に転じた神は[25]、その後も水上艦艇による突入作戦を立案した[27]。なお水上艦艇による突入作戦は、軍令部・連合艦隊・第一機動艦隊が7月下旬に実施検討した図上演習でも[28]、たびたび実施されている[29]捷号作戦における第二艦隊(司令長官:栗田健男中将)による水上艦艇突入案(戦艦の砲力と巡洋艦の魚雷戦を活用)と空母囮案は、第一機動艦隊(司令長官:小沢)から出された[30]。第一機動艦隊の水上艦艇突入作戦案に大井篤海上護衛総司令部参謀が反対意見を述べたが、第一機動艦隊は「第二艦隊の水上突入作戦が必要である」と反論した[31]。第二艦隊の水上突入作戦は(目標を敵艦隊とするか輸送船団にするかで見解の相違があったにせよ)[32]、軍令部・連合艦隊・機動部隊の一致した次期作戦指導方針であった[31]

フィリピンの戦いが続いていた1944年12月中旬、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将と連合艦隊参謀の神は、日本陸軍のミンドロ島逆上陸を強硬に主[33]。これに呼応して第二遊撃部隊第二水雷戦隊(司令官:木村昌福少将)による礼号作戦[34]が、逆上陸を伴わない在ミンドロ島米軍への艦砲射撃として実行された。


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