坂本龍馬
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^ a b 別説に10月15日生(坂崎紫瀾『汗血千里駒』)と11月10日生(瑞山会『維新土佐勤王史』)がある。11月15日説では、現行の太陽暦に照らすと龍馬が生まれた日は年明け後になり、1836年になる。
^ 清河八郎記念館が所蔵する『玄武館出席大概』にも坂本龍馬の名前が見られる。
^ (嘉永6年9月23日付書簡)原文「(前略)、軍も近き内と奉存候。其節は異国の首を打取り、帰国可仕候。かしく。」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)p.46.* 坂本龍馬の手紙『坂本龍馬の手紙/嘉永6年9月23日付父坂本八平直足宛』。ウィキソースより閲覧。 
^ a b 「北辰一刀流長刀兵法目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。
^ (安政5年7月付書簡) 原文「又、明日は千葉へ、常州より無念流の試合斗り申候。今夜竹刀小手のつくらん故、いそがしく (後略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)p.51.

 坂本龍馬の手紙『坂本龍馬の手紙/安政5年7月? 坂本乙女宛』。ウィキソースより閲覧。 

^ 従来の通説では、刀を授けたのは二姉の栄になっているが、これは才谷屋七代坂本源三郎の養女宍戸茂の証言(『土佐史談』115号)を採用した司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(1963年)以降に信じられた話で、これ以前の史料では刀を授けたのは三姉の乙女になっていた。昭和63年に柴田佐衛門に嫁いでいた栄の墓が発見されて彼女の没年が脱藩の17年前の弘化2年(1845年)と明らかになり、通説は覆されている。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.62-63、139-140
^ 「坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ」瑞山会『維新土佐勤王史』
^ 千葉佐那の回顧(「千葉灸治院」)では安政5年に帰国した以降、龍馬は小千葉道場に現れていないと述べており、脱藩後の小千葉道場寄宿を疑問視する見方もある。『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20/学研パブリッシング、2009年)p.52
^ 拝謁の紹介者については明らかではなく、龍馬史研究家の平尾道雄は千葉重太郎と推定し、池田敬正(『坂本龍馬』中公新書)と松浦玲(『勝海舟』中公新書)は横井小楠、飛鳥井雅道は間崎哲馬と推定している。飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)pp.173-176。
^ (文久3年3月20日付書簡)「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、(後略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.60-61.* 坂本龍馬の手紙『坂本龍馬の手紙/文久3年3月20日付坂本乙女宛』。ウィキソースより閲覧。 
^ a b 『維新土佐勤王史』を典拠に一般には五千両として知られているが、より信頼性の高いこの時に龍馬と対面した横井小楠の記録では千両になっている(『横井小楠関係史料』)。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.30
^ (文久3年5月17日付書簡)原文「この頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、大先生にことの外かはいがられ候て、(中略)すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。猶エヘンエヘン、」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.64-67.* 坂本龍馬の手紙『坂本龍馬の手紙/文久3年5月17日付坂本乙女宛』。ウィキソースより閲覧。 
^ 文久3年(1863年)3月に「留守居組」になり上士に取り立てられている。
^ (文久3年6月29日付書簡)原文「平井の収二郎ハ誠にむごい いもふとかをなげき、いか計か」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.75-87

 坂本龍馬の手紙『坂本龍馬の手紙/文久3年6月29日付坂本乙女宛』。ウィキソースより閲覧。 

^ (文久3年6月29日付書簡)原文「(前略)右申所の姦吏を一事に軍いたし、打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事二いたすくとの神願二て候。(以下略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』 (講談社学術文庫、2003年) pp.75-87.* 坂本龍馬の手紙『坂本龍馬の手紙/文久3年6月29日付坂本乙女宛』。ウィキソースより閲覧。 
^ a b ただし、勝海舟の研究者として著名な歴史家の松浦玲をはじめとして何人かの歴史家は、龍馬が塾頭を務めたという説には懐疑的である。詳しくは松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)、濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ (4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
^ a b しかし浪人は入所資格を認められなかったこともあり、龍馬は入所できなかったのではないかと指摘している研究者もいる(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。
^ この西郷と龍馬との初対面の逸話について時期的に疑問とする見方もある。佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)pp.62-68
^ 「亀山社中」の名称は同時期の記録にはなく単に「社中」と記されていた。「亀山社中」の名称は明治期の文献以後に生じている。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.144-145
^ 初期の株式会社は出資者のことを「社中」と称した。ただし、亀山社中の「社中」にはそのような意味は含まれていないのではないかという人もいる。坂本藤良『幕末維新の経済人』pp.201-203。
^ ユニオン号所有権問題の談判を行っていた。松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.92-94。
^ a b 1月21日とする説もある。松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.100
^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)、芳即正『坂本龍馬と薩長同盟』(高城書房、1998年)、維新史料編纂事務局『維新史』(1941年)など。
^ a b 青山忠正を皮切りに、芳即正、三宅紹宣、宮地正人高橋秀直、佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」 (『新・歴史群像シリーズ(4)維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。
^ 上京した際に会見した大久保一翁から警告されていた(『三吉慎蔵日記』)。
^ 原文「術数有余而至誠不足、上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」 坂本龍馬『坂本龍馬/坂本龍馬手帳摘要』。ウィキソースより閲覧。 
^ 小松清廉が先であるという異論もある(「日本初の新婚旅行は小松帯刀? 通説“龍馬”に異論登場」『読売新聞』2008年10月16日)。
^ 『維新土佐勤王史』などの記述をもとに龍馬本人は実戦には参加せずに陸上で観戦していたとする説もある。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.110-117、『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20/学研パブリッシング、2009年)p.91。
^ ただし、万国立法は海事のことは扱っておらず基準として出したにすぎない。* 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 大築拙蔵訳『万国公法』
^ しかし、近年沈没したいろは丸に対して行われた調査では、龍馬が主張した銃火器などは見つかっていないことが明らかになっている。 ⇒リーフレット京都 No.216 (2006年12月) (PDF) - (財) 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
^ のちの北海道には開拓使として医学者のスチュアート・エルドリッジ、鉱山開発者としてベンジャミン・スミス・ライマントーマス・アンチセルなど、多くのアメリカ人がお雇い外国人として派遣されることとなった。
^ 「石川清之助」は中岡慎太郎の変名。
^ 西郷隆盛のこと。
^ a b 龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、「船中八策」の原文書が存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。
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