龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日、ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている[注 4][11]。
同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した[12]。そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教えられていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。
安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」[6] を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽紀略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、のちの同志となる近藤長次郎や長岡謙吉らを紹介されている[13]。また、この時期に徳弘孝蔵の下で砲術とオランダ語を学んでいる。
安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した[14]。同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している[15]。
安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった従兄弟同士にあたり、のちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨を逃がす[16]。安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われることもあるが、発見・現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられたものである。一般にいう剣術ではなく薙刀術であり[注 5]、北辰一刀流「初目録」である。ただ、「免許皆伝を伝授された」と同時代の人物の話もある[注 6]。同年9月に土佐へ帰国した。 土佐藩では、江戸幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主の山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して、意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣問題では一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。しかし、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行して反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り、隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。 安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった[17]。
土佐勤王党