高校生の時に芸能界入りを決意し、様々な芸能事務所や劇団に自ら履歴書を書いて送る[3]。その中には『メンズノンノ』のモデルもあったが、不合格だったという[3]。ジャニーズ事務所にも履歴書を送り、半年後に行われたオーディションを受け、1988年にジャニーズ事務所に入所する[3]。同期にTOKIOの国分太一がいる[3]。ジャニーズJr.内ユニット・平家派に所属する[9]。
1995年11月1日、V6のメンバーとして、「MUSIC FOR THE PEOPLE」でCDデビュー。デビュー当時24歳3か月で、長らくジャニーズのデビュー最年長記録であった[3]。
2000年、舞台『シェルブールの雨傘』で舞台単独初主演を務める[10]。
2010年、舞台『ZORRO THE MUSICAL』で初めて外部公演のオーディションを受け、ゾロ役を射止めた[11][12]。
2016年、初のソロコンサートとなるミュージカル・コンサート「ONE MAN STANDING」を行う。Bunkamuraオーチャードホールではジャニーズ所属のタレントとして初めて舞台以外の公演を行った[2]。
2019年、以前から左膝の前十字靱帯および半月板損傷を抱えていたことと、デビュー25周年を見据えて手術を受け、成功したことを公表[13]。
2021年11月1日、V6が解散[14]。それに伴い20th Centuryのメンバーおよびソロタレントのみの活動となる。同年12月30日、元宝塚歌劇団雪組トップスターの朝海ひかると結婚したことを発表した[15]。50歳5カ月での結婚(初婚)はこの時点でジャニーズ事務所最年長となった。また、坂本の結婚により、元V6の既婚メンバーは6人中5人となった。
人物
ジュニア時代、レッスン教師から「帰れ」と言われて本当に帰る[16]、レッスン場に車で通う[17]など数々のやんちゃエピソードを持つが、ファンの間でも有名な「ジャニー喜多川が唯一敬語で喋る人である」という噂については完全に否定している[18]。
V6のメンバーとしてデビューするまでは長い下積みを要しており、ジャニーズ事務所を一度辞めて、1年弱の間、旅行会社に勤務していたことがある[3]。その後、自分の居場所はここ(サラリーマン生活)でいいのかと悩み始め、電車で仕事帰りのKinKi Kidsに会った時に「今、坂本くんは何してんの?」と聞かれ悔しくて答えられなかったことと、スポットライトを浴びてあの場に立ちたいという思いが明確になったのをきっかけに[19]、同期の国分太一に「ジャニーさんに、俺が戻りたいって言ってくれないか」と頼み、国分を通じて芸能界に戻りたいとの意思をジャニー喜多川へ伝えてもらい、復帰[3][5]。その後少年隊の東山紀之の付き人を経験する[3][20]。その東山とは、2013年の舞台「フランケンシュタイン」にて公演ごとに役を交互に演じるW主演を果たした[20]。
事務所からリーダーとしてV6をひっぱるように言われ、悩みながらも最年長としてデビュー当時10代だったカミセン(Coming Century)に挨拶や礼儀を教えた[16]。特に森田剛からは当初何を言っても反応が得られず困ることもあったが[16]、諦めず真正面から衝突し続けたり、井ノ原快彦がカミセンとのパイプ役を務める[21] などして徐々にグループとしてまとまったという[16]。
実家は都内で八百屋を経営[3]。両親ともに忙しかったため子供の頃から自分でご飯を作る機会が多く、料理が得意[22]。「将来の夢は10坪程度の小さな料理店をもつこと」であるとインタビューで発言したこともある[23]。