坂本太郎_(歴史学者)
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1944年(昭和19年)12月、文部省国史編修官(1946年1月まで)。

1947年(昭和22年)12月、財団法人聖徳太子奉賛会理事(死去まで)。

1948年(昭和23年)5月、「元正天皇の御事蹟」を昭和天皇に進講。

1949年(昭和24年)3月、宮内庁書陵部委員。5月、史学会理事長(1959年3月まで)。

1950年(昭和25年)12月、大学設置審議会臨時委員(1960年11月まで)。同月、文化財専門審議会専門委員(1970年6月まで)。

1951年(昭和26年)4月、信濃史料編纂委員(1969年5月まで)。6月、史料館評議会評議員(1967年6月まで)。7月、陽明文庫評議員(死去まで)。

1952年(昭和27年)4月、大分県史料刊行会監修委員。

1953年(昭和28年)9月、東京国立博物館評議員会評議員。

1954年(昭和29年)11月、「孝徳天皇の御事蹟」を昭和天皇に進講。

1957年(昭和32年)2月、浜松市史編纂顧問。4月、日本学術会議歴史学研究連絡委員会委員。5月、正倉院評議会(正倉院懇談会)会員(死去まで)。

1958年(昭和33年)3月、日本学士院会員(死去まで)。11月、大学設置審議会臨時委員。

1959年(昭和34年)5月、平城宮調査委員会委員(死去まで)。

1960年(昭和35年)2月、浩宮徳仁親王浴湯の儀読書役。3月、教材等調査研究会委員。

1961年(昭和36年)7月、法隆寺文化財保存協議会協議員(死去まで)。同月、ユネスコ東アジア文化研究センター運営委員。8月、北海道史編集審議会顧問(1966年9月まで)。

1962年(昭和37年)1月、国際教育情報センター委員(1969年まで)。

1965年(昭和40年)5月、国史大辞典編集委員会代表。12月、礼宮文仁親王浴湯の儀読書役。

1966年(昭和41年)12月、藤原宮調査指導委員(死去まで)。

1967年(昭和42年)1月、講書始講師(題名は「日本書紀の歴史的意義」)。8月、歴史博物館設立準備懇談会座長(1970年12月まで)。

1969年(昭和44年)4月、紀宮清子内親王浴湯の儀読書役奉仕。12月、日本歴史学会会長(死去まで)。

1970年(昭和45年)6月、文化財保護審議会委員(1980年6月まで)。

1971年(昭和46年)2月、国立歴史民俗博物館基本構想委員会委員長(1975年6月まで)。

1975年(昭和50年)7月、国立歴史民俗博物館設立準備委員会委員長(1981年3月まで)。

1978年(昭和53年)6月、文化財保護審議会会長を委嘱(1980年6月まで)。

1981年(昭和56年)6月、国立歴史民俗博物館評議員会議議長(死去まで)。

略伝・人物
祖先・両親

坂本の祖先は、はじめ高橋氏を称して、旗本近藤氏(後に旗本大久保氏に仕官)に仕える下級武士であった。1870年(明治3年)、彼の祖父である高橋豊太郎が、仕えていた旗本大久保氏より暇を出された際に、居を江戸より駿府に移した。その時、千人同心坂本宇之吉の株を得て「坂本」と改姓し、名を「太郎」と改め、「坂本太郎」となった。その後、1879年(明治12年)、祖父太郎は浜松に移り住み、機織工場を営んだ。祖父太郎が歿した2年後である1901年(明治34年)10月、坂本宗十郎、ちかの間に長男が生まれた。祖父の名をとって「太郎」と名付けられた。父宗十郎は小学校の教員で(後年は浜松市収入役などを歴任)、坂本が生まれる前年に坂本家に入籍した。家業の機織は、母ちかと祖母なかの手によって行われたが、1914年(大正3年)、坂本が中学校入学の年に廃業した。坂本は、第八高等学校在学中に、自家の歴史を祖母の自叙伝風に美濃紙43枚に纏(まと)めた。この冊子は特に表題が附されていなかったが、没後刊行の「著作集(12)」収録に際し、編集委員により「祖母の物語」という表題が附けられた。
少年時代

1908年(明治41年)、元城尋常高等小学校に入学。唱歌・図工・体操の苦手な少年であった。小学校の高学年のとき父から『南総里見八犬伝』を買い与えられ、これを読了した。これが坂本にとって日本史に興味を抱く素地となった。1914年(大正3年)に元城尋常高等小学校を卒業し、静岡県立浜松中学校(のちの静岡県立浜松北高等学校)に進んだ。勉学よりも夏目漱石小説高山樗牛の史伝・評論、大町桂月の紀行文を読むのに熱心であった。

1919年(大正8年)に浜松中学校を卒業後、第八高等学校文科甲類に入学した[2]が、体調を崩し、1919年12月から翌1920年(大正9年)9月まで休学した。その間静坐修行をするために上京し、神田の古本屋や博物館を巡るうちに日本史研究を志すようになった。復学後、国史の教官であった栗田元次を指導教官に選び、栗田も参加していた温故会に参加。名古屋近郊の寺を訪ねて、栗田から史料の調査や古文書の読解を学んだ。
学生時代

1923年(大正12年)、第八高等学校卒業[3]後、東京帝国大学文学部国史学科に入学した。2年先輩に、のち『新訂増補国史大系』の編纂を共にすることとなる丸山二郎がいた。在学中、三上参次(教授・文学部長、肩書は坂本が受講した当時。以下同じ)の尊王論発達史、黒板勝美(教授)の国史概説・古文書学・上代史演習、辻善之助(教授)の日本仏教史・史料講読演習、平泉澄(講師)の『吾妻鏡』の講読演習、白鳥庫吉(教授)の東洋史概説・東洋史特殊講義(蒙古語の演習)等を受講した。

1926年(大正15年)、東京帝国大学文学部国史学科を卒業。卒業論文は「王朝時代の交通の研究 - 特にその駅制について - 」であった。王朝時代(大化時代から院政期まで)の制度の盛衰は駅制においても認められるとしたうえで、当該時代を幼年期・壮年期・衰老期と3区分し、それぞれの期間での駅制とその運用について叙述した。その成果を纏めたのが、1928年(昭和3年)5月に、至文堂より発行された『上代駅制の研究』である。

大学卒業後、黒板勝美の勧めにより、臨時東山御文庫取調掛嘱託となった。辻善之助からも史料編纂掛の入所を勧められたが、黒板が坂本の指導教官であったこともあり、京都御所東山御文庫での勤務を選択した。東山御文庫では近世の宸翰や公家文書の調査を行った。

1927年(昭和2年)4月、東京帝国大学大学院に入学。8月に黒板勝美の推薦により、財団法人聖徳太子奉賛会研究給費生に採用された(研究題目は「大化改新の史的研究」)。1929年(昭和4年)、聖徳太子奉賛会研究給費生を解かれたのち、これも黒板勝美の勧めにより国史大系編纂刊行業務の専任となった。おもに『日本紀略』『釈日本紀』『日本逸史』『続史愚抄』などの校正・再校正を行った。

1934年(昭和9年)のはじめ、博士学位請求論文「大化の改新の研究」を東京帝国大学に提出した。大学院の卒業論文とする筈であったが、提出期限が過ぎていたため、一般の学位請求論文の扱いとなった。主査は辻善之助、副査は平泉澄・池内宏であった。坂本の指導教官は黒板勝美であるが、坂本の博士論文を審査するときには、黒板の定年退官が間近であったため、辻が坂本の主査となった。3教授の審査と文学部教授会の承認を経て、1938年(昭和12年)5月、文学博士の学位を授与した。この「大化の改新の研究」は、大学院・聖徳太子奉賛会を通じてのテーマであり、津田左右吉の研究を批判し、『日本書紀』の記載を逐条審議したうえで叙述したものであった。
東京大学・國學院大學での教壇生活

1935年(昭和10年)、東京帝国大学文学部助教授に就任。講師の経験のないまま助教授に就任したことは異例であった。なお東大助教授就任以前、九州帝国大学助教授や広島文理科大学助教授就任の要請があったが、皆坂本の指導教官である黒板勝美が断った。助教授就任当初担当した講義は、上代史概説と『日本三代実録』の講読演習であった。1939年(昭和13年)、辻善之助が東大教授兼史料編纂所長を退官、中村孝也が東大教授昇任に伴い史料編纂官が解かれたため、坂本が史料編纂官を兼任することとなった。これは辻善之助からの直々の依頼によるものであり、前述のとおり、坂本が東大文学部を卒業したときには、辻の勧誘を断った経緯があったため、坂本はこの依頼を受諾することとなった。『大日本史料』第1篇の編纂部長となり、部下の竹内理三太田晶二郎・武田政一とともにその編纂に従事した。1942年(昭和17年)、新設の神宮皇學館大學教授就任(東大助教授と兼職)の要請を、同大学学長であった山田孝雄から受け、平泉澄らからも進められたが、坂本は断り、代わりに当時京城帝国大学法文学部の教授であった喜田新六がその職に就いた。後になって坂本はその借りがあったので、山田が長を務めた國史編修院の嘱託を受けた。

1945年(昭和20年)12月、東京帝国大学文学部教授就任、国史学第二講座の担当となった。終戦直後の相次いだ国史学科教授の辞任・退官(平泉澄の辞任、中村孝也の定年退官、板沢武雄教職追放)により、国史学科の教授は坂本ひとりとなり、終戦後の混乱状態にあった国史学科の再建は、新任教授となった坂本の双肩にかかることになった。坂本は、敗戦により打撃を受けた東大国史学科の汚名を返上するため、実証的な学風の振興を以て再建することに尽力した。1951年(昭和26年)に、東京大学史料編纂所所長を兼任(1962年(昭和37年)に東京大学教授を定年退官時まで)、史料編纂所員の地位の向上(教官制の導入)や、『大日本史料』の刊行の再開、更には新たに『大日本古記録』の刊行に務めた。文学部教授として、学部では、国史概説・律令時代の講義・日本史学史・国史学演習など、大学院では、『令集解』の講読を担当した。


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