坂本冬美
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さらに現在においても、自身の代表曲及びカラオケの定番曲と成っている。

「火ざくら伝説/大下英治・著【1996年4月6日発刊】」の 内容は坂本の誕生からデビュー、10周年を迎えるまでの軌跡を辿ったものである。

1997年1月13日にはNHK総合テレビの音楽番組『ふたりのビッグショー』にさだまさしと共に出演。この時、2人で『秋桜』を唄ったが、歌詞の内容に感極まって涙声になる一幕があった。
芸能活動一時休業

1997年、最愛の実父が交通事故死するというショッキングな出来事に、「父の死を受け入れられず、人生の応援歌を歌うのが精神的に辛くなった」と、それ以降歌への情熱が薄れてしまったという。その上虫垂炎で急遽入院したり、持病の膵臓炎の悪化など体調が優れない中で、過密スケジュールをこなし続けていた[14][15]。歌手活動15周年を迎えた2002年3月に、歌手業を含めた一切の芸能活動を休止する。休業前に自宅を猪俣の妻へ売却して、その後一年間は膵炎の治療専念や、和歌山の実家へ休養を兼ねて戻っていた。実家から全国各地へ旅行や温泉へ行ったりしてのんびりと休養できて、旅行先などでは全く気づかれなかったと復帰直後に出演した『徹子の部屋』で語っていた[16]。なお、坂本の活動休止期間中には都内の自宅売却などの身辺整理を行ってから故郷の和歌山へ戻ったために重病説や死亡説、さらに隠し子を産んだ説まで、根拠の無い様々な噂話がマスコミの間で飛び交っていた[17]
活動再開

歌手復帰のきっかけとなったのは、実家に居た母親と一緒にテレビで視た二葉百合子の65周年リサイタルで「岸壁の母」を聴いた時、坂本自身大変感銘を受けた事からだった[18]。その時に坂本は「私が縋れるのは二葉先生だけ。先生のような強い喉と精神力を作れば又歌えるかも」と思い手紙を送ったところ、二葉から連絡が入り、すぐに上京し二葉の自宅を訪ねた。坂本は「歌に対しての自信を完全に失い、人前で歌うのが怖くなってしまったのです。引退しようとも本気で考えていました」と吐露したところ、二葉は「あなたも『歌の壁』にぶつかったのね。その歌の壁に気づいたというのは、あなたが成長している証拠で、とても素晴らしいことなの。私だって今迄何回も歌の壁にぶつかって、その度に乗り越えて来たからこそ今があるのよ。壁に気付かない人もいるんだから」等と、温かい励ましの言葉を掛けて貰ったという[19][20]。その後2002年11月から二葉の元でレッスンを始め、完全復活へとつなげた[16][21]

休業から丁度1年後の2003年4月1日、『NHK歌謡コンサート』へ生出演を果たし、芸能活動の再開を宣言。同年末の『第54回NHK紅白歌合戦』へも2年振りに返り咲き、デビュー曲「あばれ太鼓」を披露したが、曲の終盤で思わず嬉し泣きしながら歌唱する場面があった[16]

2006年第3回ザ・ビューティー・ウィーク・アワード「着物、アップ髪が最も似合う人」受賞。2008年10月、「和歌山県ふるさと大使」の第一号となった[22]

2009年、当初は「アジアの海賊」のカップリング曲でビリー・バンバンのオリジナルだった、フォークソング風の「また君に恋してる」をカバー・シングルとして両A面でリリース。翌2010年に入ってから更に売上げを伸ばし続け、坂本自身当曲が最大のヒット・シングルと成った。

2011年5月22日、和歌山県田辺市新庄総合公園で行われた「第62回全国植樹祭」の記念式典で天皇皇后の前で国歌「君が代」を独唱する[23]

2016年毎日芸術賞特別賞受賞。

2020年4月17日、「俺でいいのか」のギター伴奏バージョンの発売を記念した生配信を兼ねたイベントが新型コロナウイルスの影響で中止になり、その代わりとして自宅での歌とトークの配信企画を自身のYouTubeチャンネルで行う[24]

2020年11月11日にはサザンオールスターズ桑田佳祐が作詞作曲を手掛けた「ブッダのように私は死んだ」が発売され、坂本がデビューした際に抱いていた「いつか桑田に曲を書いてもらう」という夢が叶う事となった[24]
人物
家族

婚姻歴はない独身で、母、姉、弟がいたが、自身の公式サイトで「昨年から闘病中でした弟が、2023年8月3日享年55歳で旅立ちました」と報告した[25]

2023年11月14日放送のテレビ番組「徹子の部屋」に出演した際には、和歌山で弟が6年間母の介護をしており、坂本も毎月帰郷していたが、母が2022年6月に亡くなり、弟もその3カ月後に病気が見付かって2023年8月に亡くなったと語った。弟の遺言により、葬儀ではサザンオールスターズの曲をかけたという。現在は姉と頻繁に連絡を取り合っている[26]
交友関係

1985年マルシアブラジルで開催された歌番組で準優勝し、翌年来日し猪俣公章の内弟子となり、和歌山弁しか話せない坂本と日本語の分からないマルシアで寝食を共にした。坂本にとってマルシアは妹弟子で東京でできたお互い初めての友達。マルシアは内弟子時代に耐え切れず一度だけ逃げ出したことがあり、その家出先が坂本の家だった。[27]

伍代夏子藤あや子は公私共にとても親しく、二葉百合子門下生の藤あや子、原田悠里島津亜矢石原詢子らは「二葉組」として互いをあだ名で呼び合う仲で、藤、石原、坂本の3人でペンションを借りてゴルフ合宿をしたこともある。

声優水樹奈々は歌手活動において目標とする人物の一人として坂本の名を挙げており、ライブ等で坂本の曲を歌う機会も多い。また、両者は阪神ファンという共通の趣味で意気投合しており、SMART FRASHの2023年10月17・24日号において対談が実現した[28]
梅干し

高校卒業後、地元の梅干し会社株式会社ウメタに就職し、梅干しの塩分等の検査に従事した[1][29]経験があり、梅干しの味にとてもこだわりを持つ。本人は「(工場に勤務していたからでは無く)生まれ育った紀州の風土によるもの」と説明[30]し、紀州南高梅以外の梅干しは一切食べない[31]と述べている。この様に故郷の和歌山に対する郷土愛は非常に強く、コンサート開催時に薄塩、しそ、はちみつの3種類の梅を和歌山から会場へ直送して販売している[32]
その他

寿司、イチゴ、みかん、パパイヤを好む。

和歌山県出身であるが、
関西弁で話すことはほとんどない。

プロ野球阪神タイガースのファンである[33]

デビュー当時のプロフィールの好きな歌手の欄に石川さゆりとサザンオールスターズの名を書いていた[34]

ディスコグラフィ
シングル

1?43:
東芝EMI、44?:ユニバーサルミュージック

#発売日A/B面タイトル作詞作曲編曲最高順位規格品番
11987年
3月4日A面あばれ太鼓たかたかし猪俣公章京建輔19位TP-17935
B面あじさい酒場里村龍一
21987年
11月25日A面あばれ太鼓 ?無法一代入り?たかたかし-RT07-2036
B面沈丁花の女小杉仁三
31988年
4月6日A面祝い酒16位RT07-2070


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