坂戸城
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しかし景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡、北条勢の越後への侵入をこの城で阻んだことが景勝方の勝利の大きな要因となった。

乱を制して景勝が春日山城主になると、父が政景の家臣であった樋口兼続(のちの直江兼続)をはじめとする「上田衆」が景勝の直臣団を構成するようになり、同時に、坂戸城は、春日山城の有力な支城として領国経営の重要拠点となった。兼続も坂戸城主に任じられている。

景勝は、天正10年(1582年)に越中方面で織田信長の軍勢と交戦しており、その際、上野国厩橋城群馬県前橋市)から越後に侵入した滝川一益の軍勢とも戦っているが坂戸城は持ちこたえている。

慶長3年(1598年)、景勝は陸奥国の会津地方に転封となり、かわって越前国から堀秀治が越後に入部すると、坂戸城には、秀治の家臣堀直寄が入り、上田3万石を領した。直寄は坂戸城を山麓の居館部を中心に近世城郭へと改修している。

慶長14年(1609年)に堀直寄が信濃国飯山に移されたのち、坂戸城は廃却された[1]
立地と縄張り

室町時代の坂戸が、交通上、経済上の要地であったことは上述の通りであるが、さらに同時代にあっては、越後国も上野国もともに関東管領山内上杉氏分国だったため、関越間の交通もまた頻繁だったこと、また、当時の魚沼地方には上田銀山があって越後随一のの産出をほこってもいたことは、戦国時代に入ると、また激しい争奪の対象ともなったことを意味していた。南魚沼市を流れる魚野川

その軍事拠点たる坂戸城は、魚野川をはさんで、三国街道を見下ろす坂戸山に立地している。坂戸山は、山麓との比高は400mを超え、六日町盆地を流れる魚野川と三国川の合流点に向かって半島状に突出しており、北、東、西の三方は急崖をなし、西裾を流れる魚野川が天然の外堀として軍事上の防禦線となっている。

西麓の緩斜面に、城主の居館跡と家臣団の屋敷跡があり、東西110メートル、南北80メートルの城主居館跡は矩形をなし、その周囲は土塁がめぐり、特に西側正面には、高さ約2メートルの石垣がきわめて良好に遺存している。なお、家臣屋敷跡の前面、魚野川との間には「埋田」(うめた)と称される跡が残っている。

城主居館跡の南方、「薬師尾根」と称される尾根の中腹には「中屋敷」跡と呼ばれる東西約40メートル、南北約50メートルの区画があり、また、居館跡から東方、山上の尾根に向かう大手道を上った通称「桃の木平」には東西30メートル、南北120メートルと長狭な「上屋敷」跡がある。

戦闘時に使用する坂戸山頂上付近の「本丸」は、標高634メートルの平坦地でそれほど高所に位置するわけではないが、湧水が7合目付近でも得られることから、戦略上の価値はきわめて高かったと推定される。

「本丸」から北に延びる尾根上に「二の丸」「三の丸」などと称される主要郭跡が残っているほか、南東方向の搦手にも郭跡がみられる。南東尾根の先端、標高631メートル地点には「詰の丸」と呼称される平坦地があり、土塁が遺存している。

なお、山上尾根の要所には大規模な堀切があり、また、「本丸」東方斜面には石垣が遺存する。このほか、山頂から南西に延びる尾根の標高500メートル地点付近には「西の丸」跡がある。「西の丸」から尾根先端、寺ヶ鼻の「出丸」跡までの約2キロメートルの間に100基以上の畝状竪堀が築かれている。
周辺情報

坂戸山の山麓には長尾政景墓所と上杉景勝・直江兼続の生誕碑がある。また、山頂には天正14年(1586年)、直江兼続の勧請によるとの伝承をもつ富士権現が祀られている。現在、坂戸山は登山道が整備され、多くのハイカーで賑わっている。山開きは毎年6月30日におこなわれる。

坂戸山の山麓周辺一帯には、現在、南魚沼市六日町地域の温泉街や市街地が広がっている。
登山口までのアクセス

新潟県南魚沼市六日町坂戸

関越道-六日町インターチェンジから車で約10分

JR上越線北越急行ほくほく線 六日町駅から東へ徒歩約20分


脚注^ a b「坂戸城跡」南魚沼市公式HP

参考文献.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年3月)


小和田哲男監修『ビジュアルワイド 日本の城』小学館、2005年3月。 ISBN 4-09-681563-2

関連項目ウィキメディア・コモンズには、坂戸城に関連するカテゴリがあります。

坂戸城の戦い

日本の城一覧#新潟県

中部地方の史跡一覧

東京スカイツリー弥彦山 - 標高が同じ634 mである

外部リンク

坂戸城跡
- 国指定文化財等データベース(文化庁

【南魚沼・湯沢の魅力】坂戸山(さかどやま、さかとやま) 新潟県南魚沼地域振興局 企画振興部

坂戸山かたくり群生地マップ 六日町カタクリ保存会

南魚沼野鳥手帖 - 新潟県南魚沼地域振興局 健康福祉環境部 ※坂戸山の自然環境について紹介されている。


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